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美の特攻隊

てのひら小説

夜の河 〜6

いつの頃のものかはわからないが、十分に時を経た木桶は、この畳部屋に備えられると見事なまで風趣に富み、恰好のワインクーラー代役を、いや、それにとってかわる役柄としての調和をみせていた。

あべこべに孝之が持参したフランス産ワインのほうが、浮いてしまっていたのだが、夕刻からはじめた晩酌はすでに全身へ酔いを染みこませており、かれこれ何十年ぶりだろうという懐かしさで、このひなびた家屋を見渡し記憶をよみがえらせたものの、一通り経過してしまったとでもいうふうに、あとに残された情趣は結局、自己沈滞へと降りていくめぐりあわせになってしまった。

そうなると、しみじみとしたこころ模様は、いつの間にやらジグザクな斜線やら大小まばらの染め柄でほどこされ、それが酔眼による視野のせばまりかと云えばそうであったし、つい今しがた鳴りだした風鈴の音のように意味あり気な合図を送る夜風の仕業か、不要な想念や現象を払拭するために吹き抜けてゆくのだった。突風が砂ぼこりどころかときには肝心なものまで飛ばしてしまうごとく、酩酊にいたる行程はこころのなかにある沈殿物を浮上させ、またもや脳裏の中心まで持ちあげてくる。

しかし孝之は沈酔に身もこころも任せていられるのは、今夜が特別な環境にいるからであることを忘れはしなかった。
目と鼻のさきほどの港の喧噪から霧隠れし、独り特別観覧席から物見へとこころ踊らす、この情況に感謝しなければならない、すると、どうしても親戚に対する親和と信頼が(いくら彼らが気さくであったとしても)孝之にとっては、薄皮一枚まで肉薄してくる過剰ななれ合いとして、そこには差し迫った意味など存在してないにも関わらず、それ自体の関係に対し敏感に反応してしまうだ。

親族そろってエレベーターのなかでひしめきながら向き合う場面に、どこかむずかゆさを覚え早く扉が開いてくれないかと願う、血縁ゆえの濃さからの得体の知れない逃避のような、それがわが国の家父長制が担ってきた圧迫でもあり、そこからの逸脱を希求する近代自我の名残として、核家族に分散した現代にまだ連綿と続く決して断ち切れないものとして、日常のなかにとけ込んでいることを、気味悪くとらえてしまうのが不可解なのであった。
孝之はそんな自分を嫌った。
つまるところは自分のひとり相撲に似た神経作用かとも考えてみたが、まだ正式な講師として教壇には立ってなかった頃、宗教学の立場からかつて研究を重ねた、古代宗教の原初形態をつぶさに考察したデュルケムによるトーテミズムの聖と俗の集団表象や、フレーザーの「金枝篇」で展開される王殺しの説話、モースや更にエロスと死に鮮烈な光芒を見いだしたバタイユの供犠論、わけても近親相姦を見据えたフロイドの功績を古典としてではなく、新たな性欲論として読み直しを通じ、はじめてこの近代がつくりだした意識の解明へ、形而上学とくにデカルト以降の西洋思想と比較省察のうえ読み解こうと努めた。

しかし実のところ宗教学のあまりの広大な領域に向かい合ったとき、果たして寿命つきるまで到達地点が見いだされそうにもないと云う、諦観を抱いてしまったのも正直なところであり、もうひとつはかねてより既存の現代宗教に思わぬ魅惑を感じてしまい、本来ならば冷徹な視点で文献なり寺社なりに対峙しなければならないところ、祈りと云う古来より人類が抱いてきた精神、いや、魂の土台である根本原理を学術的に極めるのは、ある意味片手おちではないかと、それには自らを偶像に仕立て上げた教義であろうが、政治的援用にまみれた体系をもつ一派だろうが、とりあえずは無垢なる気持ちで一度は接してみるのが大切なこと、世界中の広範な絶対神の歴史的異相を追い続けるよるよりも、ひとつでもいいから安息の地に似た領域を欲したのであった。

そして祈りを通して、深く深く、知性を超えた時空へと誘われてゆくのも潔しと、大きく首肯したのである。

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