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美の特攻隊

てのひら小説

夜の河 〜7

酒の肴にと奥さんがさばいてくれた、あじととびうおの刺身をつまみながら、口中に新鮮な青りんごをかすかに思わせる白ワインを含めば、潮の香りが風に乗って遠くまで運ばれ、人気のない山村に生える果実の木のしたへと、まるで眠りをもとめてそこへ安息するかのような心持ちになり、愛飲家である孝之は、やはり今夜は一段と格別な風味の享受であること実感して、これは無明長夜に違いないこと知るのであった。
無明は仏教用語で云うところの、根本的な煩悩を意味している。
自分は仏性の顕現から隔絶したところに立っていたが、地場としての故郷は決して見失わないよう努めてきたつもりだった。少なくともここ数年は、、、

大学院に残り研究生だった頃、巷では輸入思想がファッションの様相で席巻しており、孝之も向学心から知人に薦められるまま、いくつかの書物に目を通してみた。
しかしそれらはやたら難解な言い回しを弄するばかりで芯のない、装飾ばかりで体裁を整えた文献としての価値以外これと云った感銘をもたらすものではなかった。
と云うのも共産主義思想が敗退したのちに、打ち立てるものは空疎な建築でしかないとか、すべては模倣の模倣物であると云った冷笑主義、そのハイパーリアルな醒めた意識には深く共感できるものが見いだせず、それなら現代でなくとも、フランス暗黒文学の系譜に連なる、サドやバタイユ、なかでもユイスマンの「さかしま」における徹底した非人間性の小宇宙の構築の方が、ある意味馬鹿らしく逆に人間臭さを内包していてように思えて、孝之の愛読書の一冊になった。

それでも収穫がまったくなかったわけではなく、言語学者のソシュールを丹念に研究考察したわが国のある学者や、フッサール現象学のなかに潜む欲望論を白日にさらけだし、フロイドとは異なる意識による意識としてより厳密な学の体系を模索しようと試みた著者にも共鳴したのだった。
彼は若い頃、熱心に読み耽ったニーチェの書をあたまにして、ニヒリズムをうたっている内容の希薄さを、まるで手柄のように執拗に書き連ねている批評家たちを軽蔑した。
虚無とは空白でも非存在でも死の国でもない、大いなる幻想が我々を支配している現実を直視するなかで、はじめて見えてくる特異点のような磁場であって、姿かたちにできないものを認識しつつ了解し、超越してゆく肯定の反命題そのものである。

ニーチェの思想が万人理解されないのは、実は当然のことかも知れない。
はなから本人がそう言い切っているし、又それはニーチェ形而上学特有の体系を持とうとしない、破壊性と壮大な寓話によるものであり、畢竟の大作「ツラトゥストラ」を一読しただけでも、いかにたくさんの動物たちがある任務を遂行する為、いびつにしかも華麗に描きだされ刺激と諧謔に満ちている。
そして、神が死んだと声高に宣言したあと、荒野をさまよう人々に超越の示唆をあたえつづけるが、残念ながらニーチェ自身そこまでで思索停止したかの文脈にて我々をめくらませ、権力への意志で有名な力そのものへの傾倒と呼びかけるのだけれど、その曖昧な抽象論は読むものをして、様々な道程へと導かれる仕組みに終止している。
もっともそれが意図されたものなのかどうかは判然としないのだが。
ここがニーチェの魅惑となり、あるいは圧倒的な夢想を呼び寄せる試金石と化し、いまだその呪縛から解放されることはない。
そして永遠回帰と云う一大叙事詩において、死と生の謎掛けが高らかに詠われる。
人生のすべてが、苦も快楽も一切がっさいが、寸分違わずにもう一度もどってくる、我々は果たしてひきうけられるのか、反復される人生そのものを。

ニーチェに向き合う限界はそこにあった。
これはまぎれもない獰猛でしかも弱肉強食を指向する、荒くれ陶酔を宿すディオニュソス神をまつる祭壇で唱えられる題目ではないか。
生の肯定と云う力のゆくえは迷走を許さず、ただひたすら現世主義に没する自明の理、逃げ道なしの戦場を欲するのだ。
仮に方便だとしても、修辞学以上の手応えを得られない、絶対者なきあとの絶対者、、、民主主義的な懐にとても大人しく収まる思想ではない。
ヴェーバーの著書「プロテスタントティズムの倫理と資本主義の精神」と並び、逆説的究明にはどこか皮肉めいたものがいつも顔をのぞかせているようで、それが他力を廃した結果の手段だとしても、やはり素直に受け止めがたい何かがひっかりとなって、ニヒリズムの克服を実現させるためにもう一度、偶像化されたものに我が身に投影しようと奮い立ってしまう。
それ自体がいっそう肥大したニヒリズムであるかも知れない恐れを十分に覚えながらも。

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