美の特攻隊

てのひら小説

夜の河〜13

墓所がもし貯蔵所であったなら、、、暗色にひろがる荒涼とした無限に約束された眠りの遺骨は屍であると同時に、爛漫たる躍動に満ちあふれた大いなる沈める帝国かもしれない。
わたしと云う君主を戴き、風となって野山を駆けぬけ、山稜に飛びあがり白雲をかすめとっては大地へと降臨し、ビルの谷間をいともたやすく縫い、空中どこまでも羽ばたき、民家のすべてを俯瞰し、河川はもちろん大海ひろく遊泳しながら陶然として深海底までおちてゆき、再びひかりのない世界に抱かれながら眠る。

カラスたちのすがたを見失ったとき、初恵は夢から解放されたと思ったのだが、それは皮膜をめくって裏返しにしてみただけのこと、すると今度は秘めらていた臓腑が飛び出してこぼれるように、わたしと云う現象からは超えて出ることはなく一層と我の引力にたぐり寄せられてしまい、思いもよらないすき間から自分自身の眼球を見つめることになり、するとこれはあらかじめ予期されていた不吉な死角になった。
三途の川に例えられる、意識を超脱したなかでの限りない夢幻の境地、幽光だけを頼りに解放される閉じられた久遠、闇がすべてを支配しながらも、それが冥暗からの使者であるのか、月の海がかつて蒼海であったと云うまことしやかな夢想がつのった果てに、あたかも地上に降りてくる天女を顕現させる奇蹟が、すぐそこに手がとどきそうなくらいのところに見いだされた。

月あかりは川の水面に照り返しながら夜のしじまに溶けこみ、ところどころにきらめきを捧げるよう、天上から落ちたたましいと生るべく水の精へと変容してゆく。
流れはときおり生命を水上へ跳舞させるのだったが、初恵にはそれがついこの間までの記憶のなかにあった、この河口にかかる橋のうえから釣り糸をたらしている子供らのすがたを喚起するとともに、ちいさな水しぶきをもたらすボラの遊泳へと導かれてゆき、その光景を鳥瞰するのでなく、こうしてほぼ水平の視線で見やっていることにえも言われぬ感銘を覚えるのだった。
やがて初恵は眠たげなまばたきが消えかかる裡に、夜のいのちの戯れを焼きつけたのである。

それからどのくらい時は過ぎたのだろう。流れに逆らうようにして跳びはねる魚の数が次第に増してくるのを知ると、川面に点描される銀のしぶきがいきおい自分のほうに向かって押しよせてくる錯覚となったが、しかしそれは危険が身に逼迫しながらも、まだ他人ごとのように、絵空ごとように事態を回避させる余地を持つ様にも似て、決して浮き足だつことなく銀幕から目をそらさないままのまなざしを保ち続けていた。
高速で何かが飛びこんでくる際の、まったく時間が省略された不意打ちをくらわされる唐突の悲喜劇、瞬時にして凍結される、あるいは解凍される無表情な天使の来訪、日々の亀裂。

気がついてみれば初恵の口中には一匹のボラがものの見事な跳躍をもって身を挺しており、左右にくねらす魚特有のくねりがのどの奥まで届くようにして伝わると、あまりのことに現状の把握もならず、しかも呼吸がせきとめられたのを感じるまで猶予があるほどに驚き自体をも忘却してしまって、ややあって目の前に猛然と迫った影を想起するのだった。
ままならない気息が徐々に生命を脅かしはじめたものの、鼻からの吸気でかろうじて事態の安全を確保した初恵は涙目になりながら意識がまた薄れかけたのだったが、この意表をつかれた魚の闖入におののきを感じつつ、ふたたび闇に抱かれようとした逃避行の道なりは、二日前の飛び散った記憶の蒔絵のごとく浮き世ばなれした様相で思いかえされた。

それは帰省のためN駅から乗り込んだ列車のなかで体験しためくるめく肉感であった。

発車間際にようよう座席にたどりついた風情で隣に座った中年男から、尋ねられるままに行き先など話しているうちに会話が弾みだし、自分が学校で専攻している服飾にかかわる時代的変遷や色使いがもたらす感覚への刺激といった専門分野にかねてより関心のある口ぶりをしめした男の、知的な雰囲気と親しみを投げかける目元にすっかり打ちとけてしまい、柔らかな木綿に触れているような心地よさを感じていたのである。
そして、男もまた初恵と同じ町に向かうことを聞くにおよび増々興味がつのりはじめ、偶然にしては何か共通項を持ち合せているようで、帰省と云う道行きにもかかわらず車窓から差しこむ夏のまばゆい光線に感応するのか、旅情は大きな白雲をかたち作るのだった。