美の特攻隊

てのひら小説

夜の河〜14

特急列車の走行音と振動は懐かしさをひかえめに響きわたらせてるように聞こえる。
所用に手間取ってしまい駆けこみに近い勢いで乗車してから指定の席を見つけ、このまま乗り換えなしで到着する町までしばらくのくつろぎが約束されている気がした。
目を閉じあたまのなかを空白にし、うたた寝できればよいと安逸をきめこんだのだったが、さきほど窓側の先客に自分の鞄を網棚に上げるため会釈した際、まだ少女の面影を残している横顔へ目線がたどっていった軌跡を思い出したように反芻したのは、そして疑問符として脳裏をよぎったのは、やはりその女性の年格好が日頃から接している生徒を連想させたのかも知れないからと他愛ない所感に帰着して、居住まいをくずしながら無心に戻ろうと肩のちからを抜いてみても、不快をともなわない強迫めいた好奇心みたいなものが、泡のように現れては消えるのはどこかむずかゆく、ついには思いたったとふうにして両目を開いてかぶりを隣に向けたのだった。

見れば、髪の毛をうしろに束ねたちいさな顔全体はまだいたいけなさを物語るのだが、その主役であるつぶらな瞳は遠くまで澄んでおり、伏し目で本読みをしている視線をはつらつと見送っている睫毛も初々しく、頬には軽い火照りがあるように思え、それが上気によるものなのか、それともこうして見つめられていることを察した恥じらいのせいなのかと、我ながら飛躍しすぎた考えも小気味よいほどに、少女の色香はすみれのごとく鮮やかにして凛とした表情をかたち作ろうとしていた。

まだ成熟しきらない、つぼみがほころびる寸前のやわらかな肌触りの連なりは優しく結ばれた口もとへ色染めされるごとく配色され、けっして化粧に頼ることなく乳白色にたたえられる素肌のはりは水をはじいてしまいそうで、ただうっすらと朱をはいたかの火照りがみせるためらいに似た憂いのなかにひそむ情熱が、来るべき開花への健気な恐れであるとするなら、おそらく色艶はこころの奥底にひそんでいるのだろう。

磯辺孝之はまなざしの向うに、真横へ座る少女の面を透き通して、日々教鞭をとる己のすがたとその目に映る生徒らのすがたを表出させた。
学問を説く立場には前提としてきわめて厳粛な空間が要求されるものだが、彼の授業は幾分か脱力したなまぬるさを意識的に醸しだしており、それは緊迫した空気を打ち破るというほどに明確なものでなく、結局のところ彼自身の性分によるところであった。
すると教授としての位置からのアプローチは気楽であると同時に、手抜きのない熱情を保ち続けなければならないのだが、火花散るような緊張した場面を好みはしなかった。
ほとばしる熱意があらかじめ先にある以上、それは荒馬を乗りこなすと云った手腕とは違った様相、荒波から距離をおいて傍観することを許される特権が与えられることで、学徒の間に緩和した空気を送りこむ資格を得たのだ。

「あの、どうかしましたか」
まのあたりにした女性をすり抜け、彼方まで意識がめぐってしまってしまい、対象の実在をも一瞬忘れてしまったのか、ちいさな声でそう問われて孝之は我にかえった。
「いえ、どうもしません」
あわてている様子が自分でもひとごとみたいに思われたのだが、相手のこわばりながらゆっくりとまばたきするうちの黒目にはじめて生々しい接近を覚えると、苦笑してみせるしかなかった。
「すいません、ちょっともの思いしてたようです。失礼しました」
すると女性の双眸にこもっていた不審が、こともなく氷解したのか、あるいは拍子抜けしたのか、みるみるうちに表情が明るくなって上気を取り戻したようで、それは不本意な恥じらいにも思われたが、しかし相手の失態や逸脱にかえって萎縮しまうことが時折あったことを思い出し、羞恥に香る容貌に親しみを覚えたのだった。