美の特攻隊

てのひら小説

夜の河〜15

「じっとわたしの顔見つめてたからどうしたんだろうって、誰かと勘違いしているんじゃないのかなとか、よく似たひとだと思っているのか、それから、、、ひょっとしたらわたしのことが気になっているのかなって」
「たしかに気になってました。さっきも話しましたけど私の生徒と同世代のようだし」
N駅を発ってから小一時間もしないうちに孝之は、結城初恵という十九歳の女性と席を隣り合わせになった為、いつしか話題にも途絶えることなく談笑を交えながら列車に揺られていった。
その様は傍から見れば年齢差のある連れ合いに映ったかも知れない。

事後を端緒にかえすと、不審な目つきをただされた孝之が示した反応は、彼女が手にしたままの文庫本へ留意をうながそうと努めて、いち早く表紙に記されたアンドレ・ジッドの狭き門を見てとるや、
「あなたのような若い方でもこんな小説を読んだりするのですね。感心なことです。この作品の精錬な気高い祈りにはこころ洗われるでしょう」
そう深い共感を静かにもらしたあと、相手の反応を待つまでもなく、
「私はこういう者です」
と座席から姿勢をただし名刺を差しだした。
威厳と云う形式は敗北を知らないもの、そして様式は繰り返されることによって増々技巧にみがきがかかる。
初恵は手渡された一枚のうえにある東京の大学教授の肩書きにまず目を奪われ、それから首をあげて当の孝之と視線を交じらすのが億劫とでも言いたげな様子で、適当な返答させ思い浮かばないのか、沈める花びらのように沈黙を守る圧迫になりかけてしまった。
ややあってから当惑が先行した心持ちのままに、自分でも不甲斐ないと意識しつつ必要以上の手応えを相手にこう伝えたのである。
「東京の大学ですね。名前は知ってます」
それだけをいかにもこみ上げてくる勢いで言ってみたのだったが、そのあとに連なる言葉は見つからなかった。
孝之は逡巡を見通すかの手際で、あとは長いものに巻かれろ式のこころの綾のうつろいを初恵のなかに植えつけてあげようとした。
「よくうちの学校なんかご存知ですね、光栄です。教授っていっても臨時講師みたいなもので、研究は比較宗教学なんですけど、まだまだ大先輩らが活躍してましてね。あっ、ついつい余計な話しを、、、それはそうとあなたが読んでいるそのジッドですけど、解説のところまで頁がめくられてくるところをみるともう読了されたんですか」
「はい、でもこの本はこれで二回目なんです。高校の頃に読んでさっき言われたように気高さみたなものにあこがれましたが、今度は少し違った感想が残りました」
孝之はゆっくりとまぶたをおろす仕草を見せてからさっと開眼し、探究者が独り書斎で内面と向き合ったときに現れる閃光でもって初恵の瞳の奥をのぞきこんだ。
しかしそこには鋭い眼光と呼ばれる刺はなく、あくまで澄みきった水晶のようなひかりが放たれていた。
「そうですか、それは興味がつきないところです。ヒロインのたしかアリサでしたか、彼女に対する感想ですか」
「ええそうなんです。最初は無垢なたましいが天上に召されていく荘厳な美しさに感動したんですけど、今読むとどうもしらけてしまうだけで、なんの為にジェロームの求愛を断ち切ったのかが、よくわからない、いえ、わかりかけてきたこともあるんですけど」
「それは」
孝之はいつもの教壇から質問をなぞっているふうな自分にあらたな興奮を覚えた。
「それは結局、アリサの厭世感から来ているんじゃないかって、時代背景もあるのでしょうけど、親族のしがらみなどが全部うとましかったように思うんです。だから神様への帰依だけにすがりつきたかった、それは世俗を見捨てた傲慢さでもあるのじゃないかしら」

孝之の誘導にそって思いがけずそんな所見を述べてみると、初恵は気恥ずかしさと一緒になって胸の底から吹き抜けてくる達成感のようなものを自覚した。
それはこころの綾があらたな紋様をつむぎだそうと背伸びをし、実際にも少しだけ背丈が高くなった歓びであった。