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美の特攻隊

てのひら小説

夜の河〜21

もの思いが唐突であれ、緩やかであれ、訪れるやいなや脳裏から振りはらおうとするとき、ほこりをはたく調子で軽やかに速やかに消えてなくなればと、あらためて念を押すような心づもりがあるわけでもなく、しかし、念押しされる特定の箇所がきわだって、そう、この身からあふれだすくらいの苦渋であればそれが嘆かわしいのは仕方のないこと、綿をちぎるような悔恨にこころ支配されようとも。
まとわりつくのはつかみどころのないもの、所詮あたまのなかに一時的に巣くった幻像、いつか透けてなくなってしまうのは現実の事柄と同じで、焦燥と云う感覚が時間軸にひりつきながら流下するならば、悔恨の念は不安定な小舟に揺られつつ、どこまでもあてどもなく遡ってゆく負の冒険となるだろう。

重大な意義などありはしない。大地に根をはる茎のように、神経のすじが虚空にからみあう姿態を模倣してみせるだけである。
だが、舞台上で演じられる圧倒的な悲喜劇にまったく感情移入してしまうこころの有りようと似て、それは実体なきエネルギー、宿らぬたましいとも呼べるかも知れない。
いつの世も時間の裏がわに触媒としてまといつくのは、我々の想念である。

孝之の追想から魂魄がさまよい出たのか、あるいは初恵の意思がひとり歩きしたのか、その瞬間、互いの双の目がちょうど暗闇で出会った灯りのようにそれぞれのなかに、おだやかな緊張と底しれない安堵をもたらした。
初恵の饒舌が尽きかけ、ことばが目的地を見失いかけてゆく少しの間に、孝之のあたまの裡を過去が侵入したのだったが、トンネルを突き抜ける車両の速度が、暗幕のなかではよく感じとれないのと一緒で、どのくらい思惑が遠近にめぐったのかついぞ知るよしもなく、けれどもひと通りの再現はしてみせたであろう模様は、その隠されたちいさな結び目を名残りとして、いま視線が止まり、初恵の瞳のむこうにくすんだ色を示し浮かびあがらせた。

虹彩の奥へ孝之の想いは潮流に乗ったように吸いこまれてしまうと、息子や妻に対するわだかまりはどこかに追い流されたようで、晴れやかな蒼海を満喫できそうな気分が訪れたのだが、一方では波頭が見あたらなくなった鬼胎は、たったひとり海上の残された寂寞に通じており、絶対の孤独とやらがすでに戦渦を承知で帰還を願っていた。
「夢の展開はでたらめなようで案外とそれなりに帰結を見せるものだ。たとえそれが戦慄を呼ぶものであったとして」
孝之から悪感情が捨象された。
それは夢見によって遠心機にかけられた時間のふるい落としであった。
結果、濾過されない残滓はたましいを蔵さないまなざしそのものになった、いや、たましいを置き忘れたと言ったほうが近い。
静かな波間に揺らぐ椰子の実は何を想い続ければいいのだろうか。
想いはむこうからやってきた。

比較的に長く感じられたトンネルから飛び出した列車によって、明暗の単調なくり返しはにわかに鮮烈な陽光を受けいれることを自覚し、おおいに夏の日を意識させた。
いつかの春さき、桜の開花を通勤途中に横目で堪能したはずだったつもりだったが、その程度の目配りで寒暖以外に関心ごととして四季のうつろいにはこれで十分などと覚えつつも、後日知り合いらの会話でそれこそ花見談義に花が咲き出すと、不思議なことにまだ鑑賞までには至らない今年の桜は薄桃色から一気に鮮烈な紅色まで飛躍するかのように、思いもかけない衝動がわき起こり、気分まで春爛漫に包みこまれたのは決して酒の酔いの力だけではないだろう。
ふりかえってみれば、同様の心境をこれまで何度か経験しているはずだった。
己のなかだけで完結しているものが、ほんの些細なきっかけもしくは外部からの指摘で、より最適と思われる次元まで大きくふくらんでいく。
束の間だがそんなひとときを孝之はまぶしいものを見つめるように大事に扱った。
それらが実際よりも伸び上がっていて、反対の刺激に対しても同等に、つまりは今度は縮んでしまい壊れてしまう結果を予知していたからである。
壊れないように腫れもにでもさわる手つきで扱ったのではない、はかなく壊れるからこそ、その刹那を愛でただけであった。
そうして桜の花が散ってしまうと、意識するまでもなく夏日の到来がそれとなく描かれ、花冷え春の夜を薄衣で被ったことをかすかに憶いだす。

今は真夏だ。走りゆく特急の座席に身を沈めた孝之は去り続ける時間を停止した。
乳白色のワンピースを身に着けた初恵は小柄なのか、あたま半分ほど下方へと目線が落ちてしまう。
ピンとたゆみなく渡された瞳の底からは限りないひかりが放たれ、睫毛の一本一本のカールはあたかも優雅な房をもつ肩章が突風にあおられるが如く、上目使いを強調するために翻っていた。
極上の粉飾はこうして自然の裡にあだ花となって、潤色であることを閑却させ自然を突き抜けようとしたのだった。

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