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美の特攻隊

てのひら小説

夜の河〜22

流れゆくはずの窓のむこうに時間は生起していない。
孝之の目は特異点となることで後退する背景はむろんのこと、初恵の残像さえもその場からにわかに消しさった。
するとひとこまが次のひとこまに瞬時に移り変わるようにして、あらたなの姿態が形作られるのだった。
秒針がチクタクと刻まれる幻像にまわりが包まれだしたのも、そして、そんな感覚もどこか遠い世界での出来事だと、太陽を見つめ続けた際に生じよう鋭い刃が突きさす、あの避けがたい痛みと忘我が共存する刹那へと導かれていたのも、すでにその時点が夢見の霧の彼方であることを受入れざる得ない甘い恐怖に彩られていたからである。

夢の面口はあらかじめ解体されたものを今度は独創的に構築させようと、きわめて巧妙な手先を駆使して、だが、いかにも真実を懸命に呼号しているふうな意思をはらませながらこうして始まってゆく。
ちょうどみぎわの浅瀬がいきなり深みへと落ちこんだ海底に足をとられるときのように。
恐怖は水中で増加され、もしくは緩和されて、深い深い霧により懸命な意思が目隠しされることで、もうひとつの世界への出発となる。
しかし、今ここであらわになった白日夢は、夜のとばりとはやや異なる趣きをもってその絵巻がひもとかれようとしていた。

孝之の言葉は、沈痛な余韻がたなびくことを少しだけ了解したうえで圧縮され、めくられる物語の展開を流暢なものから無骨な木の節々へと、意図的につまずく純粋な要約であるべく変貌を遂げるのだった。
時計の針がひとつ動くその狭間と狭間を大きく押しひろげながら、言葉は発声器官をくぐらずひたすら脳内へと振動する。


うちの子供のことですか。結城さんと同じくらいかな、えっ、彼女がいるかって、どうでしょう、あまり詮索しないものですから、、、いや、詮索するのがめんどうなもので、実は腫れものに触るようなものかと、そうです、あなたはうちの子供というより、生徒を想起させます。
女生徒と私語をかわすことでしたらありますけど、それ以上はありませんよ、、、ああ、つい余計なことを、私はただこう言おうとしただけです。
この列車に乗り合わせたのもなにかの縁なら、、、キスをしてもいいですか、と。
そうでしょうね、無言で見つめ返すあなたの目が怪訝な色になるのは当然です。
でもほんのり赤みが増しきた、それが危険を察知した本能によるものとしても、わずかに艶めいている柔らかな、それでいて張りのあるさくらんぼの弾力を想わせるそのくちびるは、開花寸前の女体を、、、いやいや、そう想いこまされてしまうと言ったほうが。
私の言葉が空包であることをあなたは知っている。
その証拠に、そう、呆れ果てたくちもとの向うに続いている先には、のど仏が待機してるとでもいった確信が、あなたを守っているようだ。
お守りは、つまり、無音と無言を生み出している暗黒の絶対者の沈黙がすべてであると言いたいのでしょうけれど、かたちあるのも、ええ、音にだって言葉にだって音像と云うかたちがあるのです。のど仏はかたちをあらわにする為に待ちうけている器官じゃありませんか。
いつだって最後にふるい出されるのは叫びなのです。
誕生の瞬間から、死に到る直前まで、私たちはこころのなかで呼び続けているのです。そのあいだには大きな声となってかたち作られることでしょう。
あなたのさっきまでの饒舌は不意に現れた私の言葉によって、沈黙の絶壁に張りついてしまった。
いいえ、不可能ですよ、凍りついたまま決して身動きはとれない。
なぜなら、結城さん自身がたとえ驚きであろうとも、ためらいであろうとも、沈黙を砦としたからなのです。
沈黙は言葉を放擲した最良の反抗です。なによりしゃがみこんで覗き見ると、あなたのからだがすでに潤っているのを知るわけですから。
闇の泉が満たされてゆく尊さの前にひざまずくのは文明なのです。
どうぞ、そのまま、氷壁のなかから見返される、その視線は冷たくとても美しい。

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