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美の特攻隊

てのひら小説

夜の河〜23

初恵の瞳は繊毛を想わせる微細な感情で揺れているようだった。
孝之から見れば、その姿はけっしてさまよい出してはいけない閉じられた押し花だったのだが、それは夜の夢とは異なるところ、濃霧によって秘められた隠れ里の様子が、年に一度うかがい知ることを許される掟で語りつがれるように、時折まばたきされたかどうか錯覚されるくらいの不完全さは、今が夢の一種であることを認めただよう為にも、反対にその十全を保証する裏書きとなった。
なぜなら予期せぬ事態こそが物語最上の修飾であり、紡ぎだされる綾はつねに何かを裏切りながらこころの襞をかき分けて進んでいくからである。
進むからには時間をとどめたままでは限界を招くだけで、超克される地平が理不尽にも遠望されてしまう。
別次元の扉をあけるにはより大きな飛翔と豊かな実り、つまりは無窮の豊穣を夢見なくてはならない。

過剰な装飾をまとった菩薩が鎮座する絵姿が幾重にも反復される様を、よく目を凝らして観るときには自ずと細密な異相、めくらむ巧緻で翻弄される時間を内包していることを知らしめられるように、思考は停滞しつつ、論理をまるで積み木細工に似た作業で築きあげながら、そのじつ時間の空洞を覗き見ては精巧なからくりに不埒を覚えてしまう。
調和と秩序、あらゆる万物の多様性は世界の果てにも、どこかの大国にも、まだ見ぬ秘境の谷間にも、海溝の深遠にも、集約されることは決してない、この目の奥に仕舞われるだけである。
夢の曖昧性と神秘性はまろやかに飽和するべく、淀んだ分泌物は排斥され濾過され、角がなくなることによってすべての感情は美しくもたおやかに解放されて、悲劇の演題は一大妄想劇の上演へと会場を譲りわたし、喜悦が畏怖に、悲哀が激怒に、不安が微笑に、そして充足は、まんだら絵図のように二次元の世界を剛勇に保ちながら、永遠にほくそ笑み続ける綺羅星のかがやきを失わないまま、幾万光年の彼方を今ここに顕現させるのだった。

胎蔵界金剛界の上に陽が差す。
上空高く一匹の鳶が脱力した鳴き声も軽やかに、太陽を背に浴びながら、下界に一抹の陰を落として飛んでいく。
さっと墨糸でなぞられたかの陰の遊泳が諸尊像のある顔色を一瞬、曇らせる。
するとまわりの仏顔がまるで苦笑でも浮かべるようにして、にわかにざわめき始める。
孝之は大日如来らの思念に想いめぐらせてみるより、苦笑それ自体に感心し、さらには奥義とやらが絵師のちからで焼きつけられる媒介を想像してみた。
するとごく単純な疑問がわき起こり、神々しくもきらびやかで単調な一見窮屈そうな絵図に息吹を授けたのは、はたして高僧の極意であったのか、あるいは絵師の才覚によるものだったのか、ぐるぐると同じところをまわりだし際限がなくなる手前で、普賢菩薩を乗せた白い像を思い起こした。
結跏趺坐の不安定な居住まいは危うい均衡をことさら尊く現しているようで、意味深でもあり、無意味でもあった。
それよりもそんな永劫を背にした白像の心中を察して、ちいさな哀しみを胸にあたかもバッジの如く留めおいた。
続いて阿弥陀如来の質素な御影がよぎっていったのは、十分に意義のある仏罰に他ならないと深くこうべをたれ、その簡明な御影に反比例する絢爛たる両の掌の静止をあがめながら自ら印相をまね、なおかつ西方極楽浄土からの迎えと称される来迎印が示す際だつ結びの艶やかさの裡に、生と死の、わけても生命のほとばしりを感じいてやまないからであった。

恐れおおいかな、孝之には如来の左手首がだらりと垂れ下がり無造作にこころもちをさらけ出している様が、赤子の尻を清めてくれているような、あるいは互いの恥じらいを堂々と白昼に露呈させているような、どこかエロティックな所作にも判じられてしまうのだったけれど、だが、親指と人さし指がよそよそしいほどに淡い密接で輪を形どるちから加減に幻惑されるまでもなく、もう片方の胸元まで上げられた掌が臨終のときを嘆いているより、むしろ、人の情をよせつけない頑さで万象を否定し続ける、限りない承引に近い戒めに深く共鳴した。
それはいのちのはかなさに対する諦観をも拒絶する、生きるかげろうを見据えている下目加減の双眸に平坦と描かれているからに他ならなかった。

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