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美の特攻隊

てのひら小説

夜の河〜26

太陽の意思ではなく白雲のわだかまりと、千切れ雲の気まぐれが光線の配分を決定し、車両の縁どりを見送ってゆく山々の夏木立が使命感に萌え、陰りのときを創出した。
初恵のからだは陰陽に引き裂かれ、ことが過ぎてしまったあとの陽のひかりは白々しいばかりで、はばまれ生まれた陰りもまた日々の芥が積もりきった沈滞でしかないように思えた。

淫猥な手でなぶられるまま身動きとれなかったにしろ、ほんの束の間だったことがいくらかの救いになった。それは車窓を通過してゆく無人駅の名前を横目でとらえてみるよう、簡単な足し算をする感覚で確かめられる。
夏の嵐はあまりにすばやく、そしてとらえどころがなかった。
想像すら及ばない出来事にうちひしがれるより、渇ききった虚しさが胸に張りめぐらされた。
始めて会ったこんな人物を叱責することも打擲することも叶わなかったわけは、制すれば制するほどに得体の知れない汚辱をのみこんでしまいそうで、危うい底の見えないものを瞬時に抱えこんでしまったからであり、相手の目と自分の目がかさなりあったとき、おとこ特有の物欲しげなひかりが上手く隠されているような気がして、直感的に緊迫した糸へからまったことを自覚したことが、すきを大きくひろげてしまった起因ではないかと初恵は考えた。
「くちびるがかぶさってくることはあっても、まさか、いきなり下半身に触れられるとは、、、そのせいで緊縛が強まりからだも固まってしまったのだから」

カーディガンで膝からうえを隠してと言われたとき、初恵はもう抵抗することを放棄していた。
そのあと、おどろきは拡散されどこかへ弾けてしまい、悪夢も見ようによったら楽しめるかもと云った、奇妙な遊離体験が発生したのである。
だが沈着な気持ちは残されたままで、そこから見据えることはもうひとりの自分を見続けているにもかかわらず、なぜそこに葛藤が起こらなかったか問うてみれば、答えはすぐそこに届きそうなところでたち消えてしまい、結局悪夢の側から覚醒を願ってこそ悪夢らしさを認めるのであって、では夢見られたのはどちらの自分だったのかつきつめてみれば、なかなか的確に言いあてることは難しい。
孝之の指さきは未踏の地を這うごとく密やかな夜光動物の息づかいに連なり、初恵を嗅ぎわけていった。
無論こんな痴漢に遭遇したのもはじめてなら、どこでどう横道にそれてしまったのか、なぜ、からだの芯を求められたのか思いなす余地などなく、拡散された感覚はどうしてまた不本意な高揚を得てしまい、当然波立つ激情を押し殺すはめになってしまったのだろう。

それでも成りゆきが終えたのは終着駅についたのと同じくらいの明瞭さで理解された。
次第に大胆になる手つきがいったん途切れふたたび動きはじめた矢先、その指先の振動が気力によって小刻みに震えているのではなく、別のところからくる伝播によりもたらされていることが判じられたからである。
相手の眼を見つめるまでもなく、沸騰点による身のこわばりが、くまなくかけめぐった証しに違いなかった。
そのあと、蛇のようにもぐりこんだ腕がすばやく引き返していくのを、沼地に棲息する小動物が警戒心を丸だしにして逃げ去ってゆく光景に重ねあわせ、郷愁にも似たわびしさを覚えるのだった。
さらに左手のさきが粘液で濡れ光っているのを同時に見合わせたときには、悪戯を見つけられた子供がすぐに感傷を取り寄せ一気に埋め合わせしてしまうのと同じで、孝之が自分よりも強く恥辱と悔恨で胸を焦がしているのを知り、そのまま拭おうともしない手をどうするのか、ここでハンカチを差しだすのは相当なお人好しでしかない、そしてぶざまに噴出してしまったであろう精の後始末にとまどっているばつの悪さも生理的に居たたまれなく、かと云ってときが経つのをこのまま黙殺してやり過ごすのは堪えがたかったし、それは今しがた感じとったおとこの羞恥心が感染したことを了承してしまうようで、自分の意にそぐわないことだと、ようやく理性をわがものにして、
「大人のくせにしっかりしなさい」
と、喉元にことの葉が吹きあがってきたことで、溜飲が下がったのが内心うれしく、窓枠に置いてあった飲みかけの缶コーヒーをおもむろにつかみとり孝之に手渡したのである。
とても自然な手つきで、若さを失わない気性を取り戻した素っ気なさは、凍りついた眼前の表情をほんのすこしだけ溶かしたみたいであった。
缶コーヒーを握りしめたまま静かにその場を立ち、おそらく洗面所に向かったそのうしろ姿は、振りかえるまでもなく初恵のまぶたの裏へ遠い記憶のように焼きつけられた。

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