美の特攻隊

てのひら小説

夜の河〜27最終話

短い突風が去ったあと、ひとりになった初恵はぼんやりと窓外を眺め、言葉を置き忘れたかの面持ちで呼吸をしていた。
しばらくして憔悴の色を隠しきれない孝之が席に戻ってからも、この居住まいがもっとも適度な距離感を保ていると思い、網棚に荷物を置いたままにしろ他の車両に移動するなり席を違えなかったことが、奇妙な信頼を成り立たせているようで、怒りや哀しみの感情は白々しさに宥和されたのか、あるいは虚しさの領域にとりこまれたのか、いずれにしても憎悪をふくらますほどの意欲はしりぞき、夏の光線はまばゆい情景を演出しはじめていた。
お互いのかかわりはそうやって見知らぬ他人へ還ってゆくのが本来だと乞い願われたのである。
しかし夏草のうえを軽やかに吹き抜けるそよ風のような気分は訪れず、初恵はことさらあらぬ感情をなだめすかしているわけでもなかった。
相手もまた同様にそよ風にのって忘却の彼方へはこばれていくのが肝要なのだろう。

列車を降りた途端、まだまだ太陽は盛りであることを忘れようとしていなかった。
申し分なく照りつけられたホームのコンクリートが白銀にかがやいて映った。
慚愧に取り憑かれたふうな顔色をした孝之がなにか口にしようとしたやさき初恵は、
「姉が迎えにきていますので」
それが最後の会話だと念いをこめて突き放すようにして言うと孝之は、
「そうですか、ありがとう、それでは」
くぐもった声でそう返答したのが、停車した列車のエンジン音に圧搾された低いうなりに似て聞こえた。

くるりと背をむけ、改札へ小走りに駈け抜けていった初恵のこころは、衣が一枚はがれおちた身の軽さでいま帰省したと云う実感のなかにあり、左側に見なれた白い車を背にした姉とその息子の微笑みがひときわ陽光にきらめいて、まぶしさをもたらした。
「ただいま」と言いかけ、ふと、右のうしろの方から何か黒い人影がよぎっていくのを覚え、一瞬、時計の針が止まるあの不吉な刺を感じとり、列車に残してきたあの嫌らしい余韻であることに向けられそうになったのだが、黒い影は実際にはこの目に映らず、かすかに耳へこだまする水滴のごとく、しかし一滴一滴は、確実に言葉の一音一音につらなる語感を鮮明に反響させ、こうささやかれたのであった。
「よるのみずはつめたい」
はっと振り向いたとき、目に見えないその声の主がそこにいたことを知らしめる気配となって、薄気味の悪い笑みだけが仮面のように剥ぎとられ地面にころがっている既視現象が、閃光の速度で初恵の網膜に飛び込んできた。

もう随分とまえから、それが夢のなかであるのか、なにかの物思いの最中に降ってわいて出たのか、記憶の原野をかき分けてみても、意識の留め金を確認してみても、先々で蒸発しかき消えてしまう逃げ水のように、定めきれない地下の洞窟へと底深くつながっている畏れは、この夏空にいだかれた盤石の太陽が教える永遠とまったく同じで圧倒されるばかりだった。
押し寄せてくる巨大で、暗すぎて不明瞭な、明るすぎて不澄な、限りのなさは針の穴よりもっともっと極微の世界へ通じているようにも予感され、その針穴がわずかに動く刹那を時間と呼ぶのなら、初恵にささやきを残していった仮面こそ、恩恵を施しつづけていると解釈してやまない日輪のかかえる灼熱地獄を生けとし生きるものに告げる天使であり、黒点に歓びと安息を求める死の住人であり、そして時を超えて降りてきた自分のひとがたに違いない。
手を振りこちらに満面の笑顔をおくる姉らに応えるため、口角をあげかけたほんの一秒にも充たない隙間に幻影はまぎれこんだ。

初恵は地面に落ちた影のうちに躍動する夜を見つけた。それは微笑のうしろ側へそっと仕舞われるのだった。