美の特攻隊

てのひら小説

ペルソナ〜1

その朝も残暑のきびしさを予感させる日差しであった。
いつものよう九時過ぎに目覚めた深沢久道へ最初に届けられたのは、聞きなれない名前の人から電話がと云う、妻のどこか慌ただし気な一声だった。
「誰だろう、電話で起こされるのもそうないからな」
たしかにそうした間合いであった。
仕事の関係者らには携帯の番号を知らせてあるし、彼の起床時間をわかっている知人も午前中に連絡をよこすことはほとんどなく、しかも寝起きながらも初耳の名は、久道を呼び覚ます加減を秘めているようせわしない緊迫で到達した。

「はい、かわりました。深沢です」
寝室から出たすぐ先きの廊下で受話器をとるまで、わずかな時間に押し寄せた言葉にならない胸騒ぎは頂点へと向かうまでもなく、すでに払拭されてしまった。
先方の礼儀正しい名乗りと、几帳面な性格が窺える控えめではあるけれど端整なもの言いに要約された所思が、小気味よく伝わってくる。
結局、電話口でことの真意を正すことなく、ほとんど相手の用件をうのみにする案配で訪問を了解していた。
決して矢継ぎ早で告げられるままの押し出しに揺らいだわけではない、どちらかと云えば遠慮勝ちに聞こえる口調は好感さえ醸しており、忽然と奇妙な用向きを述べられた感触に嫌な想像が巡らなかった理由は、営業目的などの勧誘とは明らかに一線を画する、腑に落ちてしまうのがためわれるくらいの意欲が満ちくる確信を覚えたからで、はなからそれが何らかの営利に結びついているとは思えなかったからであった。
仕事柄そうした場面にたずさわる事情もあるし、商売を営んでいる以上、その辺りの機微は見極めがつく。

「これからでもかまいませんが、はい、私は全然大丈夫です。あっ、そうなんですか、川沿いを少し折れたところです、フカサワ硝子って看板が出てますから」

ついさっきまで眠っていたことが何やら疑わしく感じてしまう。
それにしてもこのまちに戻るまで努めていた保険会社での経験が、こんな形で即座に甦って明快な反応を示すとは思いもよらなかった。
だが、久道の揺るぎない信憑に杭を打ったのは経験的な直感だけではなかった。電話の主がやや声を落としながら話した、
「はい、夢のなかで一度お目にかかったことがありまして、信じてもらえるほうがおかしいのですけど、たしかにあなたのお名前通りだったのです。私は先ほども申しあげましたけれど、特に信心深いわけでもありません。大学での研究でも少々分野が異なると云いますか、しかし、不可思議な体験にせよ、そこに潜んだ可能性みたいなものは探ってみたいわけです」
との奇天烈な披瀝に感電するかのごとく興奮し、続いてその夢見の情況と何故ここにたどり着いたかを臆しながら説明する様子に増々惹かれた久道は、
「わかりました。夢で会ったからなんて、ものを売りつけたり勧誘することもないでしょう。もし、そうなら、それも勉強です。あっ、すいません、どちらから電話を」

そう問いかける頃には、いつにないほど目覚めの爽快さに覆われてしまい、楽しみが待ちどうしくいたたまれないような童心が呼び起こされ、たとえ相手が大学教授であろうがなかろうが、このまちの出でかどうかも関係なく、面識もない人間がこのようなアプローチをもってこの身に訪れてくる現実が愉快で仕方ないのだった。
かりに対面したあげく詐欺師か悪戯の類いであったとしてみても、随分と趣向を凝らした、と云うよりこうも趣旨を前面に打ち出したまやかしであるからには、それなりの値打ちがあるはず、突然の幸運を逃さない為には、逆転の仕掛けを講じ自ら運命を切り開かなくてはいけない、そうやって始めて楔をこの胸に深く打ち込めた。

まだまだ続くだろう夏の光線が不快指数に堕するまえに、一刻も早くと願う気持ちは高揚し、午後からお邪魔しますと控えめに応えてくる口吻をなじりたい気持ちさえみなぎり、とうとう昼飯も用意させてもらいますから、なにより近所の民宿にいるわけだし、ぜひともそうしてもらえればと、熱したむき出しの感情に衣を着せることも忘れてしまうのであった。
受話器を置いてからしばらく経ったけれど、耳鳴りが治まらないときの浮遊感に支配されているのだろう、その場から離れようとはせず、役目を果たした健気さで静まっている電話から放たれる無言の響きに聞き入ってしまう。

これから出会う未知の人物の声を何度も思い起こしながらわざとらしく身震いをし、それ以上の先きの展開を中断してみてはほくそ笑む。
「あなた、誰か来るの。わたし、硝子細工の夏期講習だから出かけるわよ。お昼は向こうでいただくの」
不意に妻からそう聞かせれても微動だにしないだけの余韻と余裕は持ち合わせている。
「あっ、そうだったな。いいさ、昼飯くらい作れるよ」
「講習終わってからも知り合いの人たちとお話してくるから、でも夕方には帰れると思うわ」
「いいよ、いいよ、ゆっくりしてくれば」

湿度にまとわりつかれだした時計は十一時をまわっていた。