美の特攻隊

てのひら小説

ペルソナ〜2

期待以上の思惑をはらんでいたからには、初対面の人物を果たしてどういった印象で受けとめるのやら、気早に波立つ久道の眼に映じた男の年格好や人柄は、挨拶を交した時点でなにやら顔見知りに思えたりして、しかもよりどころのないままに胸のあたりに充満する既視感を、錯覚と受けとめる良識も同居させているあたり、ずいぶん浮かれてしまっているのだろう。
つまり手放しではよろこびが許されない、腑に落ちてしまうことをどこかで拒む、熱射のうちに溶け出してしまう氷塊を見つめているような、微かな敗北感みたいなものがもたげてくるからであり、その雪解け水を連想させる季節はずれなイメージに慌ただしく流される。

「お昼はまだでしょう」
久道は正午をとうにまわった時刻の来訪に念を押すよう、ほころびから笑みが飛び出してしまうのをこらえ、客人に聞いてみた。
「はい、三好荘を午前中に出て少し、海辺からみかん山にかけて歩いて来たものですから」
幾分うつむき加減でそう応える男の額には汗がうっすら吹き出ている。
久道はこころの底から合点がいったと目を奥からひかりを輝かせながら、
「磯辺さん、まあ上着を脱いで楽にして下さい。今日もかなり暑くなりそうですよ」
と言って、冷房のしっかり効いている室内だったが扇風機の羽を向け涼をうながした。

「お昼と申しまても家内が留守でして、さっきから仕込みと段取りだけはすましておいたんですけど、いいえ、たいそうなものは作れませんので。
五目冷や麦と焼き飯なんですが、あっ、五目冷麦って云うのは、きゅうりとか錦糸卵とかのった冷たい麺です。冷やし中華の和風版ですね。それと焼き飯も半ライスのこじんまりした量で、こう暑くなりますとやはり炭水化物をしっかり採っておかなければなどと思いまして、それに冷たいものと温かいものってバランスがいいじゃないですか」

この部屋に備わるソファやカーテンの布地から発散されている湿気をともなった匂いを、想い出そうと磯辺孝之は努めてみたのだけれど、それがどこで嗅いだものかはつかみ取れないまま、涼風に乗って聞かされた意表をつかれるそんな献立に和まされ、まだ少し汗に濡れた皮膚はひんやりした感触にさらされていた。
ビールでもと勧めたれたが、恐縮しながら手元に置かれた麦茶で十分ですからと言うと、
「それでは、少々お待ち下さい。今、こしらえて来ますから。すぐですから」
軽快な口調で台所に姿を消した久道の思いもかけない陽気さに唖然としながら、ますます汗が冷たくなって引いていくのを孝之は時を数えるように覚えた。

この場でひとりになって始めて感じるこそばゆさで己を解放させてみたくなる放埒な思い。
あらためて部屋の匂いが衣類の陳列された洋服屋を彷彿させる、あの真新しい繊維が浮遊し冷気と交じり合った清潔さを運んでくる初々しい微風によく似ていると感じた。
真夏の外から隔絶されても、季節に即し慰撫する使命を心得ているかの淡い、そう原色が潔く退色した薄桃色や水色に吸い込まれそうな若葉色で清涼をかもし出す、白昼の岩屋が抱えている隠れ場のような居心地。

嗅覚と云うものがどれほど意識の底辺まで沈潜し、記憶の貯蔵庫の扉を開けるのか、孝之は数年ぶりにその謎を探ってみたい欲求に駆られたのだったが、逆作用とも呼べる現実的な情況は残念ながら彼が目のあたりにしているこの室内、つまりは視線が配分する未知なる日常の方向へ否が応でも連れもどされてしまうのだった。
記憶の彼方に別れを告げることなく。
おそらく事務室を兼ねた客間であろう十畳はゆうにありそうな広さ、低めのテーブルを囲んだ布張りのソファ、レースのカーテンに遮られているけれど本来は外光を直接受けている幅広な机、その両脇の壁に添えつけられた天井まで届きそうな書架、ここからでもはっきり識別されるよく知る専門書を扱う出版社の書物。
立ち上がって端からつぶさに見てとりたい気持ちを引き締めたのは、彼自身もよく分からない穏やかな余裕が静かに警鐘を鳴らしていたからであって、決してここに長居するわけでもないのになぜか、満ち足りてしまい、こうして深沢の住まいまで訪ねた現実をその糸口を、即物的にとどめ置こうと懸命になっているのであった。
そして、あながち的はずれではないと推測される、あまりに唐突な連絡が思いがけない快諾へと結びついた意味をかみしめてみた。
書架以外の壁面にびっしり張りつけられたペナントの織物が見せつける光景、それはまだ茫洋とではあるが大胆な無邪気さを裏側から支えているような気がしてならなかった。

その無邪気さは、手料理である冷麦と焼き飯によって脱力感を生み出し、親和へと歩み始める。
台所から香ばしい炒めもの油分が漂いはじめ、孝之はさきほどからの清涼な冷気を知り得たと頷いてみた。