美の特攻隊

てのひら小説

ペルソナ〜5

真夏の幻想であろう汗ばむ想い出を払拭するに正確な涼感が伝わってくる五目冷や麦とやらは、現実には冷や汗となって居場所を確認していた孝博に良好な印象を授けた。
もはや冷や汗は引いた。
ほどなくすると湯気を立てたスープを盆に載せて現れる久道に対峙するだろうが、素早い思考に伴う記憶がかいま見せた陽気な側面にほだされたこともあって、それはまるでこれから展開する白熱の演技に向ってかまえた準備体操のようにも思われ、敵陣に踏み込んだ緊張をほぐす効果を存分にあたえてくれているのだと言い聞かせてみるのだった。

反面、時間の猶予はまさに寸前であるはずだけれど、孝之に去来する段取りなき意想は久道の調理の下ごしらえに挑戦するがごとく火炎を上げていた。
とは云え、それは決して火花散る情熱に支えられた直情を孕んではなく、所詮は青白い魂魄がこの身から抜け出し飛翔する勢いをなだめすかすのを楽しんでいるふうな、あたかも客席から見物するときの気安さが用意させていた。

現実の時間は奇妙な誤差を受け入れる。
久道が言った通り、きゅうりや錦糸卵が冷や麦の麺に即すようほどよい細さで切られており、他にも大葉やかまぼこも似た具合で添えられている。
白地に映える野菜の緑と黄身が際立った彩りは申し分なく涼味をあたえてくれるのだったが、醒めた情念がそうであるように、十全なる冷たさには幾分かの不純分子がまぎれこんでしまい、目には見えない微細なそれらの動きが温度をわずかながら上昇させていた。
夜空にまたたく光を見つめても、寒々とした意識にすべて支配されないように。
五目冷や麦は宿命的な気配でそこに涼んでいた。
孝之の思考はやや神経質な傾向に流れ出していたが、ここまで来て不意に独りの時間が隠し扉を開けるみたいに訪れたからには、現実のほうが精一杯空間をゆがめてもらいたいところ、だとして考え自体をいびつにさせるのではなく、もう決して取り返しのつかない過去だけをそこに圧縮し、どうにか置き場所にすること、それから出来るだけ手短かにここに至る経緯を提示すること、つまりあの生命危機にさらされた際に覚えると云う超然とした動体視力の威力のような、意識の時間推移を自在に駆使し予行演習しているだけなのだ。
孝之の望みは間違いなく不純な動機で稼働していた。


「夢の裏打ちを求めたことは事実ですけど、三好荘で見つけたペナントに実はおぼろげながら知るところがありまして、たわいもないでしょうし、失礼な言い方だと思いますが、いまどき珍しくペナントを制作されているのを以前にひとづてに耳にしたことがありました。息子の件でこちらに来た折です。
それと私が小学生のときなのですが、同級生の従兄弟がフカサワ硝子店の近くに住んでいまして何度か遊びに行った際に、前を通りかかったこともあってやはり記憶には残っていたのでしょう。
今は引っ越してしまったので従兄弟の方はそれきりです。
とにかく、私はあのペナントの新月の夜らしき山奥に跋扈している鹿や兎、狸の類いが小さな光に照らしだされている図柄に惹かれるところがありまして、さらには私の夢見に共通する雰囲気も感じられ、三好の主人に尋ねてみるとあなたの名前があぶり出しのマジックのように浮かびあがって来たわけなのです。
そして電話帳を引けば硝子店と書かれた下にはまぎれもなく、あの夢の名前が記されているではありませんか。
他にもあなたのことを調べさせてもらいますと、若い時分より超脳力などを熱心に研究されていたそうで、それだけでも十分な確証を得たのですけど、問題はどうして私があなたと夢のなかで出会う結果に至ったかと云う説明ですが、それは先ほどお話した息子にまつわる顛末であり、あとこれはまことに申しにくいことなのですけれども、よろしいでしょうか。
あなたの妹さんに関する噂なのです。
現在は嫁ぎさきからもほぼ縁をなくされたと聞き及んでおりまして、とある施設に入院されているとか。
私はそれほど流言を鵜呑みにはしません。
けれども、、、ある事件を、、、かまわないですか、そこで方々をあたって見た結果なのですが、妹さんが吸血鬼まがいの行為を何件か引き起こしたと云う風聞、これは実際に新聞などにも掲載されていますが、いくらなんでも根も葉もないそんな奇怪な報道はあり得ないと思いますからでたらめではないかと。
それにしてもどうして吸血事件などと騒がれているのか、私のは隠された事実が存在するように思えてならないのです。
仮にですよ、妹さんに病的な傾向があったとしても、本当に生き血を吸ったりしたのでしょうか。もっと異なる行為あえて申しますと、例えば同性愛傾向による過剰な肉欲が、相手を傷つけてしまい結果失血をもたらしてしまったとか。
新聞によると三件とも相手は若い女性であったと書かれてますね。そうですか、、、深沢さんもやはり理解し難い事件なのですか」

整理された言の葉であろうと努めた。しかし孝之の胸中を嵐のごとく飛び交った独語が乱れを見せながら散らばったとき、先ほどとまったく同一の表情をした久道が、スープを盆にのせ運んで来た。
その手つきには慎重さはうかがえず、どこまでも静かに安置されている仏像を彷彿とさせ、質問事項は速やかに鞘へおさめられた。