美の特攻隊

てのひら小説

ペルソナ〜27

迎えの駅を通り過ぎる格好になってしまったが、車で抜けゆく爽快さをおぼえ出すころには、もう山間であり、寄り道が別段遠まわりになったと嘆くこともない。
途中で弁当を買い、次第に傾斜がたかまる林道の先にある公園をめざし、孝之は軽やかにハンドルを握っていた。
このまちで車の運転をした記憶はあまりないけれど、三方を山並でぐるりと囲まれた温和な風景は、きっとすりこみになって網膜へ焼きついているのだろう、相当な月日を隔てたにもかかわらず、見覚えのある山道のうねりがさながらときの緩やかな螺旋を呼び起こし、散漫である気分を優しく見守っているのだと感じ、木々のざわめきと走行音はのびやかにひとつになった。そこにあるひかりもほどよい木漏れ日となって随所に待ち受けている。
山の地形から旋回するような道筋のせいで県境に近づいている感覚がより増幅された。
それは陸地からも見渡せる離れ小島へとせまったときに押し寄せる小舟の勢いに似ていた。海上の距離が一気に遠のく軽快な錯覚。時間の麻痺は包み込まれる光景のなかで生まれる。

「まだ夏の山って感じじゃない。紅葉には早すぎるね」
直接照りつけた太陽にまぶしい目つきをしながら純一は尋ねた。
「三好さんも言ってたよ、裏山でつくつくぼうしが鳴いてたって。おそらくあれが最後だったんだろうけど。それにしても今年の夏は永遠の日差しのようだった。が、あとひと月もすればこの辺りもきれいな紅葉に染まるさ」
孝之は尾根から麓にかけてまだらに色彩が植えこまれた山の声を想像した。
遠目には種類は判別できなくても木々が燃えさかるようにして色めきだち、枯れゆくまえに鮮やかな変容を遂げる情念を静かに夢想した。
山全体を眺めやるまなざしは曖昧な慰撫に落ちつかず、もっと鮮明な意思に促される。
「まったく妙なものだ。今ここにある山林になぐさめられながら、これから日々先の紅葉へと思い馳せてしまっている」
そう胸のなかでつぶやいてみるのだった。

緑が連なる山稜を追う単一な目線ではなく、そうまるで気高い造形を見上げてしまうときの、高圧的な翳りにのまれているかのごとく、縦走する心意気にささえられ、なめらかな曲線を描きながら下っている様をじっくりと追うようにしては、その様々に染まった華飾の宴に魅入ってしまい、控えめな亜麻色から杏色へと移ろう階調に感心する間もなく、赤錆が生じたかの点綴に瞳孔が反応しつつ、中腹へと下山する足取りのままそこに取り残されたみたいな針葉樹の、まわりに同調してしまうのを勇ましく拒んで青々と茂り誇示する一群は、より紅葉の本義を際立たせ、隣り合う鶯色にささやきかけているのもやはり染色の気概か、丁字色や浅蘇芳、洗朱、唐茶など微妙な配合に交じり合うなか、裾野へと沈むようひと際かがやく楓の枝ぶりが山道沿いからうかがえる。
そして行く手をさえぎるのでもなく、格別なにかを伝えるわけでもなく、微風にそよいでは首を泳がしているすすきの群れが、光線のなかでときと戯れている。
間近に接するが故なのだろうけど、不動に配色された山並みとは異なる晩秋がそこに息づいているのは季節の美しさである。
それからもう一度、真っ赤に焼きあがったもみじが天にのびさかる様と、地にのぞみしだれる様を、鮮烈なあかしとしてこの胸に収め置く。
雲も微かな蒼空を血で洗う意想は、まさにこの先への予感かも知れないから。
「ちょっと待って、今のとこ右手の下」
無言のままもの思いに耽っていたので少し慌てる。
「どうしたんだ」
「そこで止まってくれない」

純一は運転席ににじり寄りながらその場を指さした。
「小さな淵というか、しかも滝があるよ」
孝之には気がつかなかったが、たしかにガードレール越しの下には渓流らしき水しぶきの気配があり、それほど大きくはないけれど、ごろごろした石が転がっているなか、温泉みたいな格好をした豊かな淀みがある。
停車してのぞきこむと純一の言った通りそこは淀みでなく、川幅のひろまった流れであり、ただ上流からの勢いが上手い具合に積み重なり大きい石でせき止められ、同様に下流に対しても水はけが狭まっているので、こんな温泉ともこじんまりしたプールとも云える淵がかたち作られていた。
しかも山手を伝い岩盤を落下する滑滝は実にすがすがしく、その幅は布団ほどであろうか、水量も受けてみたところで危険に見えない。
仮に富豪ならこのままそっくり自宅の庭園に再現したくらいの、そして子供らは必ず大はしゃぎすること請け合いなほど、滑滝が落ちゆく川底は浅瀬であり水は透きとおっていた。
「真夏だったら絶対にあの滝に打たれてみたいな、打たれるってほどじゃないけど。でも気持ちいいだろうな」
純一の笑顔は孝之によく理解できた。
「そうだな、便利な修行場だな。流される心配もないし、溺れることもない、でもそれじゃ、修行ではないか」
「ねえ、父さんここで弁当食べよう。公園まで行かなくてもいいよ、ここが気に入った」