美の特攻隊

てのひら小説

ペルソナ〜32

深沢の家が目前にせまったとき、孝之は期待と不安がうわずみで交じり合っている興奮を感じないわけにはいかなかった。
さほど深刻ではない、もっと仄かに宙へ浮く現実離れしたような空気が身を包みこむ感覚。小学校の運動会で毎年憶えた即席の孤独感、遊戯の延長にありながら情況が一変しているため惹き起こされた独りよがりの焦燥。だが駆けはじめた途端そんな意識は解放されてしまっていた、あの空隙。
息子とその彼女も一緒に臨んでいるのだから、独りぼっちではないはずだが、スタート直前に横並びの生徒がそれぞれ噛みしめていた緊迫と似た雰囲気は、想い出のなかに眠らなかった。
実際純一の片目はついに獲物に出会ったような先走りの緊張で一点を凝視していたし、砂里の表情は挨拶の際に見せた華やぎから随分と隔てられたところに移されたままだった。

三人はそのまま無言のうち玄関に立った。
夏日のあの光景からそれほど間を経てないにもかかわらず、孝之は長い時間が過ぎていったと云うこころ持ちに支配されていた。
深沢の突然の死にとまどい続けた影響もあるのだろうが、生前彼より聞かされた兄妹にまつわる風変わりな語りに引きずりこまれ、そしてついには予言めいた言葉通り美代に接する現実を受け入れようとしているのだ。
意気込むと同時に空疎な落とし穴へ足を踏み入れる安堵が、浮遊感をもたらすことは必然の成りゆきである。だが意識は驚くほど鮮明に、まるで俯瞰図を沈着に見守る建築家のように冴え冴えとしており、あるいはここまでたどった道のりを峠から見下ろす達成感にも似たやすらぎがあった。
そこからの心境は反対に茫漠とした世界にさらわれたふうで、来訪の意をことさら述べる必要がないことも手伝い、出迎えた深沢の妻への弔辞も型通りに、三人が初見である堅苦しさは表立つことなく、前に通された事務室兼客間のソファに腰をおろしていた。
布張りの感触は冷房が効いていた頃とは違っていたけれど、両の壁面にしつらえた書架はおそらくあれから誰も手を触れていないのだろう、ひたすら亡き主人を待ち続けている様子が偲ばれる。
孝之はそれきりあたりを眺めるのをやめてしまったが、純一は左右に首こそまわしはしないものの片目を最大に見開かんばかりの勢いで、この室内からどん欲に情報を収集しようと努めているかに見えた。

夫人がお盆に茶をのせ彼らのまえに現れるときまで、孝之の追憶は自ら用意した陥穽にすがたをくらますごとく、以前の情況をこの席に持ち込もうとはしなかった。
喪に服する遺族を慮って黙祷のような気持ちをもったが故だろうか、それとも書き置きらしいものが残されてなかった事実が裏打ちしている事故死を首肯するが為、故人を含め調度類や書籍にもこの部屋全体にもすでに関心は薄らいでいて、胸中にひろがるのは美代の存在に尽きるからなのか、そのわけさえ自問するのが憚れた。
「おみえになる時間は美代さんに伝えておきましたから、もう少しお待ち下さい」
愛想笑いではないが、至って丁寧な笑みとともに深沢夫人はそう言って、香りのよさそうな煎茶を差し出した。
ぼんやりした頭のまま、消えいりそうに希薄な湯気が蒸発している様子を見つめていると、不意にいくつかの記憶が脳裏にめぐって来た。
ひとつはここを訪ねるまえ渓流で純一が何気にもらした「熱いほうじ茶」のやりとり、ふたつめは学生時代に読んだ川端康成の小説「眠れる美女」に数回出て来た鉄瓶の湯から入れられる上質な煎茶の場面で、次には昨晩三好荘の風呂場で湯けむりの立ちこめるなか、親子同士の裸体が何とも云えない案配にぼやかされ、それが湯殿の情趣であったとしてもあの場面では却って気恥ずかしさを覚えてしまい、微細な照れ隠しを演じようと試みたけど無言に終始したことなどであった。
茶と湯けむりが織りなしたイメージに違いないのはほぼ推察できる、しかし「眠れる美女」は煎茶だけに尽きない類推をはらんでいた。
そこまで思考を力むことなく水路に伝うよう流していたところ、砂里の携帯が鳴りだしメール着信であるのが見てとれた。
そして部屋から足音を忍ばせるふうにして出ていこうとした深沢夫人がおもむろに振り返り、
「どうぞ、ごゆっくり。わたしはみなさんのお話には加わりませんので、こころゆくまで美代さんと語らって下さい」
その声色にはどことなくけれんみが挟まっているようだったが、ドアを閉める際にあらわにした人工的な笑みには思わず背筋がぞっとした。
それは毒婦がわざとらしく浮かべる類いの、侮蔑までは示していないけれど、秘密と云う名の媚薬を嗅がさずにはいれない性根が透けて見える卑屈な儀礼を想わせた。
どこかで見かけた顔だ、、、どこかで、卑屈ながらも自虐の罠には決して堕ちない、ときには様式に傾き無機質な膠着で相手を揶揄する、高慢にして酷薄な、ところがなぜかしら憎みきれないあの顔、、、たとえるならフェリーニ監督の映画にほんの脇役で登場する娼婦やモデルや女中
孝之のあたまは猛スピードで記憶の断片をかき集め、ねじれをより戻し、逆巻く時間をなだらかな曲線を持った収まるべき装置にと、そう時計のなかにへ組み入れようと躍起になっていた。
夫人がいなくなって間もなく、青ざめた顔色で部屋を飛びだしていった砂里の慌ただしい行動に注意が払われないほど。