美の特攻隊

てのひら小説

ペルソナ〜39

美代の存在をあらためて間のあたりにする意識が逆巻き、孝之は夜の河で出会った夢の光景をふり返ってみた。
とても長い道程を経て深沢久道の背後に、そのすがたを透かし見たような心境へ至ったはずなのに、実際の出来事とは無縁のイメージがわき出して、三上陽子なる人物にまつわる記憶へと音もなく、ただ空洞を抜ける夜鳥の羽毛に触れる想いで誘われた。
それは端々に刷毛が無造作にかけられたまま、ぼんやりと夜空に浮かぶ雲に運ばれる。
山稜からなら手が届きそうだがかなり上空である。どれくらいの風が吹いているのだろう。見上げれば、ふんわりした形状は次第に海生動物の様相へ近づき、地上から無垢なる心情を吸い上げている。
天と地と海の雄大さは、抵抗し難い勢いをもってこの一室に凝縮してしまったようだ。しかしその中心部はくすんでいるではないか。
予期されていたかも知れない砂里の母親の出現、それは雛形を作り得ない風姿であり、あたかも空から降りてきた雲の影であった。浮き雲の安寧とはかなり趣きが隔てられ緊迫した空気に促されていた。

やせ形の乾いた匂いを発する容貌には慣れ親しみにくい印象があるのだが、その目に込められた憤怒とも愁訴とも判じられない因果をくみすれば、正鵠は射ておらずまだ雰囲気全体はつかみとれていない。なにより突然の来意を弁明することが先決であると云う、意気込みはあますところなく伝わってくる。
砂里とはつくりが反対の大きく見開かれた双眸が、残暑のように過酷な、それでいて儚いうつろいを代弁しているようで、唯一似通った長いまつげがせわしさを潤沢に補い、饒舌がうかがわれる呼吸を意識しているような口もとは期待を裏切らなかった。
場面は細部の経過をなおざりにし、美代の影をよりいっそう色濃くした。つまり三上陽子をあまりに近く感じていたのである。

「お聞きの通りです。砂里の事情も私の意向もあらかたのみ込んでいただけたのではありませんか。いきなり押し掛けてしまう形になってしまいましたけれど、どうしても娘だけ寄越すことはできませんでした。こちらの方々、ことに磯辺先生はこれで得心なされたでしょう」
「私をごぞんじでしたか」
あいさつなきまま直球を投げつけられた格好の孝之だったが、動揺を隠さず素直に事態を受け入れた。
「砂里からお聞きしましたし、純一さんからもお話は少々うかがっております」
毅然とした語気に今のところ雲の陰りは感じられない。自分は招かれざる客だと云う、開き直りに等しい口上が用意されているからであろう。
「大変失礼しました。砂里の母でございます、長沼、いえ三上陽子として参りました」
誰に目をあわせるわけでもなく、吐息のように口にした。それはかつての陽子自身への問いかけであり、力まぬ証明に聞こえた。

「陽子ねえさん」
「美代ちゃん」

時代を越えたふたりの表情が、刺々しさに張りつめた空気が、二羽の小鳥のさえずりをもち寄り得難い陥穽におちいる。突如として見出した防空壕への安堵に。
赤錆がこぼれ落ちるような柔和な微笑が陽子の顔に張りついた。まわりの人々も童話に聞き入る憧憬のまなざしと一緒に、胸の片隅から泉が湧くのを覚える。
ともあれ最初に視線を送るべきひとであった美代の呼びかけは、陽子から邪心を追い払う効果を発揮した。
たちまちのうちに陽子の両肩からあらぬ勢いが抑えられて、踏みしめている足もとに張った懐疑は希釈され、弁明に専念しようと努めた口もとがしめやかに閉ざされた。
残暑に佇んでいたまなざしへ灯された明かりはろうそくによるものだけではなかった。
孝之は童話から紙芝居に目移りする小さな興奮で、何かが急降下してゆくのを認めた。明らかに雀躍をあらわにしている陽子とは対照的に美代はほとんど顔色を変えていない。陽子の方にからだを向けているものの、その全身からは日陰へとどまり花咲かす可憐な息づかいしか聞えてこなかった。いや、動じなかったのではない、砂里を一目にしたときからすぐ先に引き起されるされるであろう情景が見てとれたのだ。
先んじて悲愁に胸を焦がしたのは間違いなく美代である。
だからこそ、墓標に陽光が降り注ぐのは粛然たる恥じらいとなり、また、前ぶれがあったと云え棺の蓋が開けられるような告知がこころ許なかったのだろう。
そんな美代を深く理解していたので、このまま牧歌的な感傷にひたっているのが寸暇の戯れでしかないのを了承するためにも、陽子は本来の役割に速やかに立ち戻らなくてはならなかった。郷愁の淵に身を沈ませているわけにはいかない。
置いてきぼりを喰った人々を嘲笑する悪鬼たるべく室内の空調を強引に変えてしまう。にわか拵えされた微笑を仏壇の奥深くしまい込むふうにして、さながら孝之のお株を奪った久道の様相で講義を再開させた。

「私には磯辺先生の気概をおしはかるが難しいのです。砂里があの写真を以前より盗み見していたのは知ってましたし、年頃になるにしたがい性向に問題があるのも薄々感じておりました。それが私の罪業であると思い込まなくてはならない強迫観念に苛まれていたことは信じてもらえますでしょうか。
吸血事件を耳にしたときには卒倒しかけました。のちに印可をあたえられたのからではないかしらと怖れたものです。そして今まで封印し続けて来た秘密もすべてあからさまになってしまうのだと嘆きました。
私だけの保身ではありません、娘にとってもそれは母親の宿業の顕現だと痛感させてしまい、結果はどう転んでみても良いはずはないのです。
かといって私が躍起なったところで、古傷を隠し通すよりほかに賢明な手段は見当たりませんでした。おわかりですか、私たちの間には神秘的な要素も、興趣をそそる物語も含まれていないのです。探るべきものなど到底あり得ません。どう思われますか、磯辺先生」