美の特攻隊

てのひら小説

ペルソナ〜46

決して声をかけた方向に寄ったわけではなかったが、美代の言葉は塚子との距離をせばめていると錯覚してしまう効力を秘めており、それは金縛りの状態をあらわにしているのではなくて、むしろ特異な磁場で浮遊しているような不均衡ながら危うさを示さない様子であって、旋風に呑まれた揺さぶりが塚子の身体をこちらに向かわせているのだった。
「死んだ深沢さんが乗り移ってる、とっさに信じてしまいそうになったけど、おそらく美代さんが口にした魔法の言葉で塚子さんを緊縛したんだ」

純一は嵐の晩ひっそり部屋にうずくまっている、嫌に平静なこころを想像していた。
荒れ狂う暴風や叩きつける石つぶての雨あしを素直に耳にする、根拠のない安らぎに似た倒錯。災厄が間近に迫っていてもどこか遠いところの出来事だと思いなす、あの現実遊離した不確かな綿菓子のように膨らんだ胸裡。
しかし、綿菓子に幾筋かの神経が魚の小骨みたいになって隠されている実感は近くにあり、恐怖が隠匿されていることは薄々承知しているのだった。
呪力がひとを制圧するのは暴力的な有り様でなく、反対に安堵を装った催眠的な加減で自らの毒針に刺されてしまうのだろう。
純一の視界が幻覚に近い様相を呈したのも、横目を使うまでなく砂里を介抱しつつ同一のまなざしを投げかけている陽子を察知したのも、そして父とて虚ろな状態のまま塚子の背後をじっと眺めているのも、あたかも集団催眠にかかったふうに思えてくるからだった。一陣の風がときをほとんど同じにしながらそれぞれをかすめていくように。

美代は風に言霊を吹きこんだ。そして霊力を高めるために夜の水を呼び寄せた。
「これはあとから父さんに聞いたんだけど、深沢さんは新月の夜に人里離れた山中までわき水を汲みに行ってたらしい。それを家のまわりにまくというんだ。東西南北、特定の位置に念いをこめ清めていた。どれほどの効用があったのか分からないが、月の始めには欠かさずそれを行なっていた」
意識がうつろい始めた塚子をなだめるように、天井から雨漏りを想わせる夜の水がしたたり落ちてきた。
「どうして夜の水だったかといえば、驚いてはいけないよ。塚子さんの髪を濡らせてからしばらくすると水蒸気が立ちのぼるふうに深沢さんのすがたがぼんやりと現れだした。それが塚子さんの肉体からにじみ出てきたのか、あるいは包みこむように陽炎となって浮きあがってきたのか、そのどっちでもあったのか、ぼくは深沢さんとは面識なかったけど、とにかく紛れもない本人だと感じたよ。美代さんだって兄が来ていると言ってたわけだし」

深沢の面影と塚子の身体は重なりあっているようで分離しているとしか形容できなかった。
透けておぼろげなのは降霊者の方だけれども、霧がかかった生身のすがたも仄かに映り、まるで幻灯機二台を使い同じ場所を映写しているみたいな実体のつかみきれない視覚が生じていた。
「幽霊には足がないって説もあるけど、手足だけじゃなく全身がぼんやりと淡く水色に見えるんだ。水って不思議だよね、海水も川水も手にすくってみれば透明だけど、海川だと緑色だったり青色だったりする。生命は水のなかから誕生したから魂もやはりそうなのか、なんてうっすら考えたりした」
砂里の目の奥がわずかにきらめくのを純一は、汚れなき不安だと信じた。
父とも話し合ったのだが、たとえあの降霊が集団幻覚であったとして何ら劣等感に苛まれることなく、ただ純粋に現象と触れ合ったのだと首肯すればそれでいいのであり、心霊の有無をことさら問いかける必要はなかった。大切なのはどうして深沢の亡魂をまのあたりにするのかと云う、我々のこころの綾である。
「ねえ、それで深沢さんは何か喋ったりしたの」
この世のものではないかもと恐る恐る包みをほどくような口調には健全な期待が含まれており、忌まわしい不安はすでに退いている。
失神したのは事実だが、こうした思いもよらない再会によって好奇の芽が顔をのぞかせれば、純一の語りはただ単に過去を言及するばかりでなく、未来へと続く道程に不確かだが、何らかの指針を示しているのかも知れなかった。

うつむき加減ではあったけど砂里の微笑が回遊魚のように戻ってきた。
純一は不意に語り部である自分を意識してしまい、と云うのも偶然にしろ街頭で砂里を見つけたときから、それまで疎遠にしていた去年の夏をもう一度追体験してみたい欲求にかられ、封印したつもりでいた忌諱の箱を衝動的に開けてみたくなったのだ。
忌まわしいのは追想をはばむ諦観に規定された希望であること、それから自意識を常に性格づけによって許諾している狭小な了見を見過ごしてきたこと、そうした葛藤に対する反動がかたちを為さないまでも、噴火を待ち受けている火口のごとく平穏から飛び散ろうとしている。
だが、今は自分の知り得るものを、砂里が知りたく願っているものを正確に話し終えるべきなのだ。純一のなかにもふたたび回遊魚がめぐってきた。
「深沢さんはひとことも喋ったりしなかった。君のお母さんと同じく。関係ないと思うだろうがどこかで通じているんじゃないかって、はっきりした根拠なんかはない。ああ、ごめん話しがそれたね。結局夜の水が降り、霊魂が塚子さんに取り憑いたというか、不可思議な現象を体験して、それよりとにかくうちの父親が現実的に一番の衝撃をあたえてくれた」
「深沢さん無口だったのよ。きっと何を言っても無駄だと思ったんじゃないかな。でもお母さんはそうじゃないわ。無言である意義を見通していた。過去が未来に繋がることを誰よりも理解していたから」