美の特攻隊

てのひら小説

ペルソナ〜49

砂里の黒目はどこへ焦点を定めればよいのか分からなくなっているようだった。貰い受けてきた子犬がはじめて屋内に放されたときのためらいに似て。
それは葛藤や軋轢からくる重圧とは異なる、もっとたおやかな、花吹雪のなかにさらされているみたいな、ときめきさえ覚える香しい身の危険。強風によって散らされる花びらが全身に降り掛かってくるあくまでも華美に籠絡されるとまどい。
純一からも砂里のこころが透けて見えるような気がした。レントゲンの透視など無機質な視覚ではなく、蝉や蜻蛉の羽のように生きた透明度で知りうる柔肌のこころを。

「そんなふうにはっきり言われると恥ずかしいよ。君だって恥ずかしいだろ」
ふたりの思惑が同一の場所にとどまっていると純一は考えていない。むしろ至近距離にありながら見落とし勝ちの慣れ親しみをもう一度しっかり見つめることで、水底の感触が伝わってくる程合いに互いの断層を計るのだった。
本心から出た言葉であれば額面通りに受けとめただろうが、むしろ大胆な問いかけに自らも狼狽をしめしたがっており、些細だけれど、悪戯からは脱皮しかけた思慮がかいま見え、純一の反応を甘く鈍らせた。
念頭に突き上げると云うよりも、相手の固定されない目線を追いながら香りとったのは自分の肉体から滲みでてくる煙状の、だが肝要なすがたをかき消さない淡い煙幕に包まれた軽やかな推量だった。
見果てぬ夢であった砂里との接触をきれいさっぱり拭ってこれなかった情欲が、ついに今湯煙の熱気を立て始めている。

生来から異性には関心ないと自他ともに認めていた感覚がわずかに揺らいでいるのだ。
見通すより早く、こちらの感情を察知していたからこそ大胆に聞こえてしまう探りを入れてきたのだ。ここしばらく音信が途絶えていたとは云え、少なくとも好意を寄せ合ってきたことに違いない関係に変化が訪れるのは予期せぬ事態をどこかで求めている証ではないだろうか。
郷里の件にしても同性志向の吸血鬼とのふれこみにより、吸い寄せられてしまった比重が大きいかも知れないが、同郷に縁があるだけで異性である自分を慕い、冒険を試みたのは決して算段によるものだけとは思えない。
この微妙な距離感をなるだけ意識してこなかった所以は何より砂里の感情を逆なですることなく、それでも波紋を与えたいと云う抑制のある理念に収斂された。
決して恋愛を狭間に据え置かず、ある意味邪心を持ち合わさない友情とも呼びがたい想いは、何気ない口ぶりや態度に如実に表れるところだったが、恐らくはこの距離をとりあえず維持したが為、自ずと中性的な接し方をこころがけていたのだ。男色の気は備わっていないけれども、女性同士の交わりに対する憧憬は性的な次元を超えて赫奕たる清浄なひかりへ結ばれる。
こんな意想が内包されていたから、砂里の胸に好意以上の親和がこだましていたと純一は信じたかった。夏の日の冒険は案じていたより呆気なく終息し、異性としての関わりがなかったからには、それぞれが担っている通りの現実に埋没してゆくしかなく、あれから別に信頼が深まったわけでも、馴れ合いに流されたのでもなかった。
どちらかが過ぎ去った想い出にしがみつくか、またそこから奇矯な展望をめぐらせ強引に縛りつけでもしない限りは元通りの間柄に帰ってしまう。
先ほどの砂里の発言は純一にしてみれば、諦観の彼方にそよぐ涼風であるべきだったけれど、こぼれるはずのなかった独り言を反対に聞かされたことで、こころの底から羞恥に苛まれたのだった。そして恥かくしの言い草に無様なくらいふさわしい、あんな反復を口にしてしまった。ところが砂里はまたしても純一をかく乱させる返事をしたのだ。

「恥ずかしくなんかないわよ。だって前々から思っていたことだし、今日だって偶然に会ったようで、そうでもないって考えたの。ごめんなさい、こっちから棒で突ついといて、困ったはないわね。でも、ずっと連絡なかったから少し寂しかったのかな。ねえ、こんな言い方するからよき解釈に進展するわけ」
と、言ってかつてない破顔を見せた。
純一もつられてはにかみが苦虫に、それからまるで喧嘩のあとの仲直りで交わすさわやかな笑みに変わっていく心持ちがした。するとこれまでの下心が一気に露呈され、自虐的な歓びにまじり沸々とわきあがってくれば、勝手に文句が飛び出す。
「ぼくも健全な男子なんだ。君と間近にいて情欲を持たないほうが不健全というもんじゃない。そうだよ、かなわない欲情は紆余屈折しながらどこかに噴出するしかないんだ」
「日に二回も自分でしてるって本当なの。まえにそう言ってたわよね」
「ああ、そんな時期もあったさ。もう昔のことだけど」
「何が昔よ、わたしたちまだまだ若いのよ。そんな老人が語るみたいな言い草やめてくれない」
砂里の面持ちは笑みを保ったまま、語気を強めるでもなく、ただ穏やかな子供が少々本気になったような淳朴な口調で応対する。
「去年の夏の出来事だって、わたしのなかではまだ終わっていない。そうでしょう、それでお父さんはどうなったのよ」
純一はわざと渋い顔をつくりながら、
「あっ、本題からそれるわけね。わかったよ、なにしろ今日の課題だから」
そう答えると、今度は眉間のしわをひろげ隻眼を光らせのるだった。

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