美の特攻隊

てのひら小説

夢の愛

ことさらまえぶれなく閉ざされたドアの向こうへ手をかけたのは、薄らおぼえでしかない顔がほのかに浮遊していたからであり、その手つきに異論をとなえるような思いはひそんでいなかったにもかかわらず、水の流れにあらがえない穏やかな諦観が影となって寄り添い、そしてあふれだすことを願ったゆくえが窮鼠の風貌にせばめられたので仕方なく、先客の装いと名分をすみやかにあたえ、さながらたなびく抹香の沈着さを取りもどしては、踏みしめた階段の感覚すら忘れている自在なおのれを知った。
水面を揺らすことなく落ちた幻影にちがいないそう念じた矢先、みなれた面貌が脳裏をよぎり、不穏な空気は夜風を呼びこんで、あたりに散らばった枯葉のようにかろうじて舞いあがろうとつとめ、どんよりした帷のすそをかいくぐる。
魂魄に魅入られているなど一蹴すべきところ、夜目にまぎれてまとわりつく蜘蛛の糸のごとく、暗転を覚えず陽光から遠のいた身には、迷妄にゆだねる心性がふさわしいのかも知れない。決して臆したわけでも開きなおったわけでもなかったが、ドアの先から誘いの声が伝ってくるのをなかなかふりはらえず、それならこの情況は悪夢とみなして、探勝の気概をたかめればよいと案じ、昼夜の変転に即すあの明朗な心持ちをいだきつつ、大仰なくちぶりでこう問いかけてみた。
「そちら側から見通せるとでもいうのか、あたり一帯はすでに占拠されているんだ。まやかしようのない実感が、いいや時間が、このからだには流れているのだからな」
いくらか声がふるえたのは意気込みばかりでなく、なんともこそばゆい、それにしては水面のさざれを見やる軽やかな傾注から逃れたふうな及び腰にとらわれたせいもあるのだろう。
背後に風とは別の気配を感じながら、しかしその気配に取り込まれることもなく、かといって消えさりもしないまま、虚ろな鼓動だけに耳をすませば、いつしか先客に導かれていたよう思えたこの形勢は実際ではなく、魂魄はおろか霊妙な作用さえ生じておらず、すべては閉ざされたドアのあまりに変哲もないありようにまどわされ、あるいはなぐさめられている様を、ぼんやり受け入れるしかなかった。


逍遥につきものの高い空を見上げてしまう身振りを忘れかけたのはおのずであろうか、こころのどこかで限りない跳躍を望んでいるのだが、億劫な顔つきのまま晴れ晴れしくもない調子にあわせるよう、曇天に隠された太陽の輪郭を夢想しながら、憧憬が秘める黒点のような影に導かれ旧街道を歩いていた。
気の向くまま足の向くままの想いが拡散されたからだろう、知った道幅はいにしえの風雅に彩られ褪色した切り絵みたいな、しかし定まることから微妙なずれを育んでいる間延びした景色によって牛耳られてしまい、眼に入ることごとくに神妙な奥行きを感じてしまう。
気分が高揚するのは、いつもこうした浮遊の場面に臨んでいるときだという念いを噛みしめてみると、増々もって意のままに辺りは変容を余儀なくされた。そしてあの顔さえ甘美な懐かしさにほころんでいるふうで、笙の音が醸す寂然とした、けれども野山と市井の写し画に点描された華やかな翳りが織りなす情景の重なりにいざなわれ、それは風琴の奏でる荘厳を呼び起こし、寞寞たる道行きは異相に転じて、もの柔らかな外観を呈する。花咲く音曲が染み入るごとく。
風に吹かれた背がわずかに屈む気がしたのも一興なら、うっすらと砂埃の立ち込めるなか目途を探り当てた錯誤が巻き起こり、寺社につらなる家屋の造りまで閑麗なたたずまいに映りはじめたのだが、まじまじと眺める余裕は等閑に付され歩を進めた。とはいえ、こどもの時分駄菓子を誰やらにねだった記憶にまとわりついた意識は写真機をまたもや持ち忘れている後悔に他ならなかった。
ただ悔やみの半減しているところを覚えた途端、明快な輪郭が見上げた空へ描かれたようで家々の瓦からにじみだした墨汁のひろがりに淡い青みを見出すと、まぎれもなくここは夢の空間であり、眠りのなかの小さな情愛が目覚めを欲していることに促され、写真の不在を補うかのように浮き足だった気分は、まるで前戯を端折った淫情に等しく、生唾をこらえるすべを投げ打ち、かわりに甘露をたっぷり含んだつぼみの艶冶な風情へと没する。雨水の人知れず樋をつたい、地下に浸透してゆく香しさとともに。
両の眼を見開くまでもない、すでに夢の時間をなぞる意識は迷宮から認可されており、あとは胸に敷きつめた焦燥のありかを求めるため橋づくしさながら、奥行きに反して現実の土壌から逸することのなかった道途を越えるだけである。
せせらぎと異なる急流に散らばる面影には色欲が純粋に不透明であった頃の、やはり特定できない温和な心持ちが宿っているのかも知れない。橋を渡る素振りだけ風の勢いを借りれば河の流れは視界より消え去って、眠りのなかの眠りは覚醒の障碍になり得ず、険阻な山道を踏みしめていた。

新緑のささやきと澄み渡った空気はしめやかに孤影をゆらす。
木立の間隙から降りそそぐ陽射しが苔むした石畳に呼びかけるほどに明暗が生まれ、次第に強まる傾斜の加減は彫像の意志を投げかけるよう見返ることをやんわり拒んでいるのか、それとも山頂にいたる道程には強引な魔手が地を這って、荒い呼吸を乞い願っているのか、いずれにせよ耳をそばだてるまでもなく、微かな湿気が肌に触れはじめたときには、岩清水を束ねた清涼な光景に近づいている兆しから逃れることが出来なくなっており、いやむしろ強迫めいた考えに両足は絡めとられ、あと一息でのどを潤す猶予を先送りしたい被虐すら呼びおこしてしまった。
眼前に開ける予想もしなかった源流との出会いが、玲瓏な水しぶきによって約束され、頂きに満ちあふれている。あるべき姿は絶景に違いない。
ところが脈拍を意識する緊迫に夢の常套句を当てはめようとも、その臨場感はより実際の展開に支えられ微動だにしなかった。ほどなくたどり着いた袋小路には石畳の趣きから大きく隔てられた人工的な砂防を想わせる堅固な形式が横たわり、ようやく下方を振り返ってみれば、まやかしは見事なまでに山間を漂って、今までの視界を厳かに裏切っていたのだ。
もっとも杓子定規な意想などはなから存在しない。あるべきものは覚醒まぎわの性急な欲望だけなのだろう。砂防めいた囲いには激流がたたえられており鮮烈な飛沫が頬をかすめた。と同時に下山の意志に押された。隠すまでもなく秘境へまぎれこんだ脆弱な探求心が萎えるのを退けることも叶わなかったからで、しかしささいな抵抗を試みたのは恐る恐る底なしの激流に歩み寄り、のぞき見るだけだったけれど、頬をぬらすしぶきは涙の役割を担ってくれたのだろうか、ぼおっと薄明かりの灯された眼中には遠い陽だまりのような静けさが忍び入り、清澄な淀みが現れると水中に魚影を発見した。

それは色こそ暗色であったが二匹の魚に違いなく、悠然と視界を横切っている。不意にこれまで見てきた夢の数々がよみがえり、魚影の戯れに別れを告げる間もないまま、今めぐり出した想いをこちら側へ持ち帰ろうと念じるのだった。