美の特攻隊

てのひら小説

青春怪談ぬま少女〜2

見知らぬふたりはもう随分とまえからわたしのことを観察し続けているような思いがした。
だって顔を見合わせるのと、わたしを見つめている時間が同じくらいで、そのうえ目の色はとても深く、くちもとは秘めごとを押し殺しているように感じられたから、まちがいないわね。こんな間合いなんて偶然に生まれるより、前もって取り決められたって考えたほうが正解だよ。
あ~あ、沼の底に沈んだのはきのうきょうの出来事じゃない、かといってそんなに古い事件でもなさそう、わたしの意識が眠っていたにせよ、閉ざされていたにせよ、こうやって他者と向き合っている実感はとっても生々しくて新鮮だったし、不安だった。
ひょっとしたら意気消沈の期間が分厚い被膜になってなにも得られかったのかも知れない。ともあれ、死んだ自分に意識が戻っているのって興奮してしまうわ。さぞかし混乱したと思われるでしょうけど、あんがい高鳴りは正常でまっすぐ胸をはっていた。よろこびも手伝っていたかもね、そりゃそうでしょう、ここがたとえあの世だったとしても、わたしは目覚めている、もっと言うなら生きているんだ、死はすでに過去形であり、わたしのまえに立ちはだかってはいない。
これは開き直りかな、気持ちの整理はゆっくりやれそうだったから、あれこれ解釈はやめにして、自覚から出発進行することにした。で、気づくとふたりのすがたは消えている。前後左右なんども首をまわしたけど、どこにも見当たらない。ひと叫びしたいところだった、ほんとう。
ところがなんとですよ、別の視界が開けていたわけ。手の届きそうな場所にごくありふれた民家の扉が待ち構えているじゃない。これには仰天したわ、どこでもドアじゃあるまいし、どうしていきなり、、、とはいってもその半開きの扉が現れたとたん、わたしうれしくなった。
「この娘はものわかりがいいですねえ」
あの声が耳の奥でこだましている。はい、わかりました。
わたしの意思が視界を生み出しているんだわ。とすれば、心持ちのあり方でみどろ沼は別世界になる可能性がでてきた。
あれこれ解釈をやっぱりするべきだ。沈思黙考、ああ時間を感じる、と同時に水圧も、冷たさも、息苦しさもやってきた。これじゃ溺れ死んでしまいそうだった。でもすでに死んでいるって念じたら体感はきれいさっぱり遠のいていったわ。もう水は空気、飲み込んだって平気、あいかわらずどんよりした水底だったけど、平野のように限りなくゆきわたっていた、なにがって、う~ん、よく言い表わせないわね、しかし早起きした朝の空が澄んでいるみたいで決して不快な気持ちになったりしない。
いいことがあるって保証は求められないだろうけど、とりあえず扉に手をかけてみた。

あれ、これは地下道ではないですか。トンネルにも見えるけどそうなると水底トンネルになるわね、が、わたしにはあくまで地下道に映ったの。水の抵抗を感じない限り、ここはすでに沼であって沼じゃない。だから陸地が呼び戻され呪縛から解放された、そう思いこみたかったのですね。その方が都合よいだろうし夢がある。
では早速、旅に出るとしましょう。申しわけなさそうにかなりの間隔で灯っているほの明るさを頼りにどんどん進んでいった。どれくらいの距離を歩いたんだろう、とにかく一直線な道だったわ、ふと腕時計をしているのを知った。
どうして今頃、、、それとも扉と一緒で急に出現したってことかしら、でも、悲鳴が伝わってひび割れを起こしたふうな時計の表面は汚れたままで、時刻をしめす針はぐにゃりと折れ曲がっている。これでは役に立たないわね、だから忘れていたのかも。
いやだわ、いやだわ、腕時計が壊れたと推定されたとき、わたしは誰かに殺された。そのまえには乱暴された。きっと抵抗したはずよ、その際の傷跡かも知れない。手首から引きちぎってしまいたい怒りを覚えたけど、どうしたわけか、そのままにして止まった時間を押し流す要領でより早足で地下道を駆けて抜けた。
薄暗いのはもちろん、単調な直線に変化は訪れなかったし、目的意識さえ希薄になってゆき、ふたたび朦朧とした視野に導かれ、浮ついた気分は意思をささえきれなくなっていたわ。それほど長い長い道のりだったのよ。一日や二日じゃなくもっともっと、一年、三年、十年、概算すら通用しないのは仕方ないの、わたし死んでいるから。
引き返そうなんて考えなかったわよ、ここまで来たんですから、地底探険よろしく果てまで行ってみたい。しかしながらこの永久的な暗がりには滅入ってしまう、出口なんかない、これが死の世界なんだ、沼の住人は引導を渡してくれただけ、やがて歩き疲れ倒れこんでしまう。
そのとき意識は消えさり、わたしは無になる。だったらもういい加減にしてほしいわ、これって儀礼なの、誰かに案内されているわけ、そこに意味なんてあるのかしら、死人を生かしておいて一体どうするっていうのよ。
怒りもあったけど、実はとっても悲しかった。うらみつらみもない、わたしを殺した奴にも激しい憎悪を感じなくなっている。願いはひとつだけ、早くこの意識を消して、ふっとろうそくの火をかき消すように。
死んだあとまでどうして苦しまなくちゃいけないの、そもそも死は無でしょうが、平安時代とか鎌倉の世にわたしの意識が存在しなかったように、ただ永遠の沈黙が約束されているはずじゃない。
これが目一杯の思考だった。そしてあとはひたすら呪文のごとく繰りかえされるばかり、いっこうに倒れもしないし、地下道は生真面目に続く。百年ほど経ったのかしら、でも時間じゃない、距離でもない、そして意識でもない、いや、こんなこと思っているんだから意識はありそうね。そのとき天井からぽたりと水滴が頬を打った。
たったひとしずくだったけど、なんという懐かしさなんだろう。わたし涙を流しそうになったわ。
けど涙よりひらめきのほうが素早かった。意識が意識らしくなったのよ。そう、こんな思いつき。
わたしは生まれかわる為に歩んでいるんだ。過去を切り捨て新たな生命となる、とね。
するとすかさず抵抗が生まれた。
過去の記憶なんてすでにない、この腕時計が唯一の残骸、それとも今から徐々によみがえりの作業が始まるってことなの。生まれかわりではなく記憶がめぐってくる、受け皿に盛られるだけ盛られる、あらゆるの記憶が。
つまりこの地下道は負の巡礼とも言える。耐え忍ぶのは死人も同じってことか。そこで別の思惑が鋭く放たれた。
過去を背負う、これって幽霊になるって意味、化けて出るのね。復讐してやるのだわ。成仏できないはずよ、まだくすぶっていたんだもの。
けど、この見解は無惨に崩れてしまった。ならそこら中が幽霊だらけじゃない、霊感を持ってるひとだけにしか見えないなんて割に合わない。犯人に霊感がなかったら話しにならないじゃない、まったく。
それからしょぼくれて足取りは勢いをそがれてしまったけど、また水滴が落ちてきた。はっとしたわ、それからぞっとした。
そうだったのか、わたしは沼のほとりに浮かびあがるのね。ぼおっと色褪せながら。見れるひとだけでも上等なんでしょう。あそこに幽霊が出るってうわさが立てば、わたしは使命を果たしたことになる。
そのうち心霊写真なんか出回って顔かたちからいよいよ身元が確認され、遺体の捜索が始まる。わたし行方不明者のままかも知れないから、これで家族にもさよならが出来るのね。いいわ、やってやろうじゃないですか、幽霊になってやる。そして夜な夜な登場して世間をあっといわせるの。
ほとんど有頂天だったわ、死者がこんなにはしゃいでいいものやら。ああ、でもよかった、きちんと感情が息づいている。ようやく目的が見つかったのよ。
ところで、どうしたら幽霊になれるのかしら、、、あっ、答えはこれだ。この地下道を抜ければいいのです。そうでしょう、神様。ここまで悟ったんですからね、そろそろ出口に近づけて下さいよ。