美の特攻隊

てのひら小説

青春怪談ぬま少女〜9

コンパスの矢は精確な位置をしめしている。
目的地をさとす使命を担ってるわりには、小さな手のひらにおさまってしまう頼り気のない丸みと軽さだった。けどその軽さがわたしの足付きをハラハラさせ、緊張にはばまれながらも優美で不遜な意識へと先走りさせてくれたのでしょう。
未知なる世界への跳躍、振り返るまでもないありありとした現実、しかし現実と呼んでいいものやらとまどいは隠しきれない。恐る恐るの気持ちは急上昇する気流へ乗りこむしかなかったわ。眼下にひろがる地平に冷ややかなまなざしを投げかけながら。
わたしは水底を歩いている。閑散とした見晴らしです。似たような水草がまばらに目につくだけで、壊れた腕時計が放棄した通りのほの明るさに支配されていた。止まった時刻こそわたしの死、しかしながら幽霊意識の目覚めは夜の漆黒だけに塗りつぶされてはいない。疑ってみたくなるものですね。待望の民家がぼんやりと現れたというのに、焦点を結ぼうと努める意欲自体を。
察してください、喜びは素直さにぎこちなく接してしまうのです。でも瞬く間だった。わたしの家はこじんまりとした方斜面の平坦な屋根をもつ昭和モダン風な造りでした。努めた意欲が空回りした甲斐はあったと思う。被われない意識は瞬時にして我が家を愛でていたのですね。面倒でもこんな摩擦が確固とした目線として成り立っていく。
浮き足だっていたのでしょうか、でも足取りはいくぶん慎重だったような気がします。期待していたプレゼントをひも解く気分に似てね。だって破顔は絶対しまりない下がりでしかなく思われたし、誰彼にというわけでもなかったけど、愉しみをゴムひもみたいに緩ませている感覚を理解して欲しい。これって屁理屈じゃないわよ。

定まりきらないまま門前まで歩み寄ったとき、はじめて気後れしたの。不快な気後れなんかじゃなかった、決意を抱きしめたと同時にこぼれ落ちるためらい。愁いの再確認かしら。

ともあれ、新築の家を訪問する背筋の張り方は間違っていなかったでしょうし、こころのなかよりもからだの汚れを感じとってしまった。
「なかには誰もいないよね」
懸念とも心積もりともはかれない手つきでドアを開いたの、ええ、もちろんゆっくりと、あたかも潜水艦のハッチを押し開けられる慎重さを想像しながら。
まったく予想外だったわ、と口にしたならいくらかの欺瞞がまじっていたでしょう。コンパスはわたしの内奥まで探り当てていた。
「どうもはじめまして。わたくし家守りのヤモリタマミと申します。臨時の家政婦みたいな者です」

どう見たってわたしより年長の、だけどどことなく幼げな笑顔が初々しい女性がドアの向こうでたたずんでいる。一歩退きかけたのは本当よ、それくらいの反応は許されてしかるべきだと役者根性みたいな振る舞いで応じたの。うっすらした打算も兼ねていたわ、その方が質問の煩わしさを回避できる、つまりですね、相手から名のったのだから、それなりの事情を落ち着き聞きいれたかった。
「部屋の掃除と設備の点検、それに食料も補充しておきました。すぐお風呂へ入れますし、ベッドにも横になれます。食事は今日の分だけは用意させてもらいましたので」
直感は的中ね。なかなか調子の良い滑り出しではないですか。すっかり安堵を覚えてしまったわたしはことさらにヤモリタマミさんの容貌をしげしげ眺めることなく、こう言ったわ。
「ありがとうございます。助かりました。では早速部屋を案内して下さい」と。
如才のない返事を受けとめながら、今までの曖昧で不透明で、よりどころのない、しわくちゃなシーツがパリッと張られたような清々しさを感じ、あまつさえ純白の密度が濃さを増して、大方の不安は消し飛んでしまった。とりあえずだけど。
こうなったら本来自らあちこち足を踏み入れるべき問題はゆるやかに据え置き、家守りのこのひとを土台にして有意義な時間と共存していこう、なんて出世頭か独裁者みたいな勝手な不惑が羽ばたきだしたわ。
感謝の念をあたりまえとしてくみ取っている自分にやましさを少しは感じていたけど、置かれた情況と行く末を照らし合わせてみれば、囚人のわがままが容認されていると思えていたの。独裁者のそれを横取りしたように。
それなりに心地よさそうな居間、なるほどと感心してしまったしんみりした寝室、窮屈なのか相応なのかよく分からない勉強部屋、そして機能的で素朴な風呂場とトイレ、まだあった、くらがりを欲してやまない納戸と寂しさを見せつけるにもってこいの小さなベランダ、ヤモリさんの実直で的確な案内を受けながら、その実ぼんやりとしていた。
そして気づいたときにはすでに遅く、肝心の事情をあたえてもらっていない不始末にいたったというわけ。家守り人はさっさと所用を片付けた手際よさを誇るでもなし、きわめて良質な事務的態度でわたしのもとから立ち去ろうとしていたわ。嫌みなんか微塵もないだけに問いかけの言葉がつかえて出てこない。
「それではわたくしこれで。学校の方から近いうちに通達がありますからその旨にしたがって下さい」
くるりと反転する勢いでないにしろ、もう背を向けたに等しかった。その所作にすがる気持ちは部屋中の窓をすべて開けたことも手伝って、さわやかな風に取り巻かれ、なおのこと詰問めいた口ぶりは抑制されたのよ。
「ではお元気で」
「どうも」
腑抜けた声色に我ながら唖然としてしまいました。
取り急いだつもりじゃなかったのに、ことはうまく運ばないものね。結局なにも聞き出せず仕舞い。やはりどうこうあれ慢心はいけません。決意の浅さを知らされたというか、べつに必死の形相でもなかったから、まあいいかって開き直ってしまいました。またまたへたり込んだ、いえいえ、居間にあるべくして据え置かれたソファに深々と腰をおろしていた。
やっぱりひとりだ。いやいつもひとりだよ。けど何者かの眼はどこかで光っている。この定理にまとわれている限り、わたしは奮い立つことができそうです。そして驚愕すべき事実を発見しました。錯覚だろうが、たぶらかしだろうが関係ありません。しっかり感知した現象ですから。

風とともに陽光が窓から射しています。お日様ですね。水底の感覚は霧散し、沼の景観でもありません。ここは地上と寸分も変わらない大地だったのです。奇跡なの、確かに動揺しながら窓辺へ寄り、深呼吸してみると奇跡らしさが実感された。仕掛けも驚きのうちですから。
ただ、わたしは沼底の世界から見渡せば見渡すほどに牧歌的な土地に立つ家に住み着いたという恩恵をさずかった、天地が逆さまになろうがこの歓びは否定できません。あっ、早くも逆さまになってますが。
さてと、次は沼高校とやらからの通知を待つ。これだけ世界が大変貌を遂げたにもかかわらず沼ってところが引っかかるけど、ふと唱歌の一節が呼び起こされ、思わず口ずさんでしまいました。
「手のひらを太陽に透かしてみれば、、、」
さらなる展望を夢みましょう。