美の特攻隊

てのひら小説

青春怪談ぬま少女〜10

世界の豹変に目を見張り、感動にひたっているのは素晴らしいことだけど、お腹がへっていてはままなりません。うっかり忘れていました。昂った気分にも限界はある。こう言うと身も蓋もないですが、裏返せば限りある感動にふたたび出会うには日常の連鎖を排斥するわけにはいかないってことでしょう。そこで、食欲、性欲、安眠欲を重視しなくてはいけません。
性欲は今のところまだ迷妄の域から脱してないと思うのでひとまず脇にずらしてですね、なにより食欲を充たしましょうか。はい、これは大仰な考えではありません、ひたすらわたしに密着した定めなの。
空腹だと安眠のさまたげになりそうだから早速、冷蔵庫とその周辺を探ってみた。納戸にクローゼットも気がかりだったけどね、それは腹ごしらえのあとでもかまわないでしょう。
ヤモリさんが残していったあの、
「今日の分だけは用意させてもらいました」
って生唾が出そうな甘い言葉に操られるようコンロのうえのなべに目は釘付け、赤いなべって想像力を育みますものね。
ええ確かにある種の限定を醸す色合いでもあるんですが、お腹ペコペコのときって希求力をともなって大きな期待が生まれてしまうでしょう。白色、銀色だって文句はないんだけど、飼い犬にたとえるなら待てを言い渡されているみたいでどこかしら歯がゆい。
そこで思いもよらぬ芸当があみ出されたわけ。右手で赤いなべのふた、左手は冷蔵庫の中身をという飢餓情況を大胆に演ずるふうな仕草に苦笑しながら恍惚を覚えるとですね、待つことを知らない欲望は全開し、瞬時にしてお腹におさめるべき食事が決定されたわ。

なべの中身は野菜スープだった。
じゃがいもにブロッコリー、にんじん、トマト、ざっと眺めただけで了解。冷めているようなので温め直す。冷蔵庫の内側は言葉で追うことが厄介なくらいでした。
ありますとも、詰まってますとも、ひんやりと冷気は冷気らしく頬を優しく差して反面、調理の手間を厳かに物語り、それは野菜や肉類に限らず、マヨネーズやケチャップにバター、味噌といった脇役にまで及んでいる。
あたかも薫陶を受けた生徒の趣きだったから敬遠に傾いたのは語るべきもないわね、不良学生のままでいいから素早くがっつりした食べものをかみしめたい。野菜スープに物足りなさを覚えたお腹具合わかってもらえるかなあ。
続いて戸棚をあさると米に食パン、乾麺らが鎮座しておりました。そしてカップラーメン各種が並んだ壮観に上質なめまいが生じた途端、わたしはやにわに金ちゃんヌードルをつかみとっていた。UFO焼きそばとかカレーヌードルにも食指が動きかけたけど、欲望の閃きは殺気さえ帯びており、もし野菜スープがなければあとひとつ食していたと確信する。
炊きたてごはんの支度が予想されるはずだったので、わたしの困惑はかなり見苦しかったでしょうね。
食パン焼かずにかじってもよかったんだけど、べつだん喉が渇いていたんじゃなかったから、なんか口中の水分が吸い取られそうな怖れに振られてしまい、目ざとく見つけたハムをはさんでサンドイッチをこしらえる意欲は失せていた。
むろんカップ麺だってお湯を湧かさないといけないし、その時間を埋め合わせるのはすでに用意されていた野菜スープが並行するからであって、苦行を強いられている重荷はなかった。女子高生らしくサンドイッチを頬張っていればいいものをハムに魅入られたのが運の尽き、好物なのね、家のなかの食材の味覚全部を忘れようにも忘れられない。食の記憶って凄いわ、なんて称賛している間にハムのパックを荒々しく破り、マヨネーズとカレーパウダーをかけてかぶりついてしまった。がっついているわりには一枚一枚しみじみ味わっていたのよ。ちょうど食べ尽くすころ金ちゃんヌードルにありつける心算でね。

この先の無粋な食べっぷりはお話しません。
炭水化物より先に野菜をというふうな意見を何となく覚えているんで、気恥ずかしいわね、あとは想像におまかせしよう。ただ野菜スープが想像してたよりか遥かに豊潤でそれもそのはず、かなり分厚いベーコンのすがたを見知ったとき、感激にむせてしまったとだけ言っておきます。
人心地つきました。しかしながらまだ戸棚の隅っこや食材の点検に意欲を傾けるのはどうしたものでしょう。冷凍庫からいちごミルク味のアイスを引っ張りだしくわえたまま、調味料あれこれとか、インスタント類の確認とか、ああこれも飛ばしますね。
そこで飛んださきはやっぱり眠気だった。旅人が宿の一夜に日頃からの郷愁をどっさり持ち込むように、そしてまどろみと安寧がふんわり枕元に被さるように、わたしのまぶたは緩やかな風のはからいでひかりを閉め出そうと求めている。
同時にあたまにかかった霞はあべこべに鮮やかな彩りを点在させながら、不思議といけないものを見つめている感じにとらわれ、ふと台所の片付けなんかよぎらせしつつ、赤いなべが宙に浮いた幻影に乗り込んで、ますます明滅する景象をつかみとれずにいた。
おそらく意識の反面では入浴は省くとしてもシャワーでさっぱりして寝床に入ったらどう、なんてささやいているのね。まったく、、、旅の宿にだって温泉はつきものよ、これからここはわたしの家なんだから、べつにかまわないんだけど、とにかくはじめての我が家ですしね、けじめというか汚れをきれいにしたいって気持ちは拭いきれななかったのでしょう。
でも眠い眠い、節度ある意識は日々の結びつきを前もって算段している様相で、間延びした顔を認めようとしているのかしら。
「まっ、とりあえず横になってですね、どうせならソファよりベットで、仮眠よ仮眠、さっと寝入ってからお風呂に入ろう」
なんてね、こんな譲り合いが案外はっきりしたかたちでかすめていったわ。
そうと決まれば睡魔に引き込まれる姿勢はほとんど酔客の足取りで、さらに窓のほうを見遣るまでもなく、さっきまでカーテンを染めていた朱は隠れ、どうやら宵闇が外を包囲している。これで大義名分がたちました。おやすみムーミン谷、じゃなかったみどろ沼。
もう沼ではないけど、そうこころのなかでつぶやけたのはこの家のちからでしょうね。わたしは見事どろ沼みたいに寝込んでしまいました。夢なしです。
だからなの、目覚めの悪さがかなりよくなかったのね。激しい自己嫌悪に苛まれ、おまけにからだの節々まで異様にけだるい。頭痛こそなかったけど鈍い気分に全身呪われている感じがして、思わず納戸に身をひそめようと思った。
寝つくまでの茫洋とした幸福感は一転、学校からの通知や監視といったとらわれの意識が毒花のように開花した。結局は仮眠ではすまず熟睡した様子だったわ。カーテンに裏漉しされた朝陽は鋭く、なにやら急いている。
壁掛け時計だってこんな分かりやすいところで時刻をしめしている。えっ、9時15分、これってもしかして寝坊、学校ってもっと早起きしないといけなかったのでは、、、

そのときだったわ、玄関口でジリジリって音が鳴り響いたもんだから、とっさに電話のベルかなって案じたんだけど、見回しても電話機はなく、音も外から伝わってくる。重たいからだを引きずって外に出れば、郵便受けにそのすがたありだったのね。来ましたよ、早速、学校からの案内書、寝坊したから起こしに来たのならその配達人はどうして声をかけなかったんだろうか。
待てよ、通知が届いたからといって今日から登校しなければいけなってわけでもないわね、どうもわたしはものごとを都合よく考える傾向があるみたい。昨日はあんなに感激した太陽に挨拶するのも忘れ、すぐそばの郵便受けに手をのばす。
ウキウキではなく、しかしトボトボでもない、しかるべきことをやり遂げる、実際は渋々なんだろうけど、相変わらず人気のない景色を横目に封筒を取り出した。
志呉由玲様、間違いなくわたし宛てだ。住所は数字が並んでるけど、たぶん登録証のそれと同じだと思う。
またしてもジリジリ、えっ、左右にかぶりを振ってみたが誰の影も通らない。うろたえました。だってその響きは家のなかから聞こえてくるのです。いい加減にしてよ、もう、携帯電話を見落としたってことね。怒り心頭まではいかなかったけど、何故かといえば不安のほうが勝っていたし、探偵ごっこじみた持ってまわったやり口に圧倒されていたからでしょう。
そして重いからだでわざと床を踏みならしながら部屋に入ると、電話のベルらしき物音はなんとクローゼットの内側から鳴っている。そうね、まだここを確かめてはいなかった。怖いもの見たさなんかじゃない、こうなったら真犯人をあばく心意気がわきあがってきたわ。
さっと扉を開くと変哲もないただの受話器がまるで蝉のものまねをしているふうに鳴り響いている。それと黒い制服に黒いかばん、それらにべつだん驚くことなく声の主に迫った。
「もしもし」
「志呉さん朝寝坊なの、もう一回10年学級に戻りますか、すぐに顔を洗って通知をごらんなさい。それとあなた、昨夜ユメを見なかったでしょう。いけませんね、そういう心がけですと、わかりましたね」
かなり厳めしい女の先生だ。だがその容貌は浮かんでこない。
「わかりました。顔洗います。ちゃんとやります」
あわててそれだけ言うと、
「では」
受話器の向こうから気配が消えた。
黒づくめの身支度品にやはり見とれていたのでしょう。だってこの電話機はありふれたものなんかじゃない、ボタンもダイヤルもない、同じく真っ黒だから見逃したの、、、こっちからは連絡できなってシステムなのね、そう思えば合点がいく。
では仰せのとおり顔を洗ってきますか。わたしは封筒を握りしめてはいなかった。むしろ非常に有用な書類を授けられたに等しい丁重さをこめ、手のひらにはさんでいました。