美の特攻隊

てのひら小説

ノスフェラトゥ

有益な情報は尽きた、、、いつか訪ねてきた青年に、関心事はさておき澄んだ瞳にくすぶる仄暗さをもち、身震いを闇夜に捧げようとしている相手にむかってフランツはそう答えた。
さながら叙事詩のピリオドにふさわしい響きをもたせたつもりだったけれど、実際には隣家からもれてくる夜想曲のような静けさを含んだ名残惜しさがこめられていた。
蟄居の身に甘んじながらも胸の片隅では廃墟と呼ぶに似つかわしくないこの屋敷を想えば、奇妙な眼球の動きにとらわれてしまう。
しかもそのまなざしは稀な来訪者のすがたをたやすく通り抜け、霊気となって大理石の床に更なる冷ややかさをもたらし、悠久の彼方を夢みるのであった。不遇をかこつ情況が結果であるとは言い切れない、何故なら冷徹な意志が足もとへ狂わせた可能性を決して軽んじるべきでないからである。
かつての狂気こそ最良の条件であったことにフランツは異存はなかった。
落胆の色を隠しきれない青年の面持ちに向って雀躍を禁じ得なかったのがなによりの証し、それはあたかもかつて執事を努めていた頃の記憶と入り交じり、我ながら陰険な心情をくみ出したのか、わざとらしく舌打ちをしてみせる不埒な愛嬌をこぼした。
主人への忠誠は悦楽と引きかえであった。

「私の名が偽名であると同時にあの使い古された良心とやらは影をひそめ、宿痾が光彩を放ちはじめたのだ」

フランツは自らの放浪癖を逆手にとり、矛盾ともみえる安住の地を見出したのである。
それが廃屋の気配を醸し出そうとも、朽ちた日々に侵蝕されようとも、鮮烈な想い出がある限り、真紅の裏地を配した暗幕は開き窓を遮蔽する宿命に忠実であり続けた。
城主なきあとの職分が流浪の気性に歯止めをかけた現実を認めないわけではなかったし、老齢にいたった身上のなりゆきとしてみれば当然の帰結であったことに間違いはなかろう。
ただ陽光のまばゆさをさえぎる無辺の闇を好んだフランツにとって、覇気の衰退や加齢は然したる意味をもたなかった。むしろ本来の性をむきだしにする野獣のような不覊に祝福され、その歯牙は夜ごとの夢をはぐくむことを忘れはしなかった。
それゆえ番犬シシリーの愛くるしさに隠れた放埒な稟質を見逃しはせず、うわべでは気さくな素振りで接していたが、これはなにもシシリーだけにとどまらず他者すべてに対し言えることであり、孤高を恃みとする心情からしてみればごく自然の振る舞いであった。
一日遅れの手紙を開封する焦りを周到にごまかした羞恥にさらわれない為、文字と一緒に指先をまるめるように。

フランツにとって言葉は必要でないのか、そんな疑念を起こすまえに執事としての職務へ目を向けてもらいたいところだが、残念ながら委細は見通せるはずもなく、その怜悧で分をわきまえた暗躍ぶりはいうに及ばず、才気にたけた生業とだけ記しておくのが関の山、煩瑣でいら立ちを催す日々の過ぎゆきの裏に愉楽を得ていたことは否定されるべきではない。
とにかくフランツに不可欠なものは暗闇にしたたる隠れた情念に他ならなかった。
山稜よりのぼる朝陽のまばゆさが城内に仕掛けをもたらそうと躍起になったとして、ここの住人たちはさしずめ素肌にまとったマントをひるがえす所作をしてみるだけで、夜の霧を呼び寄せ、暗澹たる喜悦に近づくことが可能であったから、執事の体面はことさら揺らぎもせず、自若たるたたずまいを保てたのだった。
貴重な葡萄酒の香りと切り分けられた肉塊、永遠と引き換えに死神を駆逐した報酬はありあまる栄光であり、柱時計は緩やかに、そして性急に振り子を揺らしていた。
それでも老いはやって来る。永遠という高貴な代物にさえ腐蝕の手はのびた。
善人の一生にも悪鬼の生涯にも均一にときは流れる。いつかの訪問者はフランツを題材にした物語りを書きたかったそうだが、おのれの血涙だけで綴れるほど人生は甘くない。そう他者の血を求めなくしては。

 

 

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