美の特攻隊

てのひら小説

22世紀の夢遊病者

夕暮れどきの浴槽にはとけおちそうになる甘い果実があらかじめ浮かんでいるのか、あるいは沈める秘宝が夜明けを待ち望んでいるのか、薄く透けた湯気が窓外へ流れると、反対に生真面目で慈愛をはらんだような冷気が頬に降りてくる。
その刹那、背中から首筋あたりにかけて郷愁がわき起こり、半ば忘我にいたるのだけれど鏡を曇らした様子が遊戯めて見えるせいなのだろう、旅情をかすめた心持ちはさほど平静さを失うことなく、いや、むしろちいさな高揚に支えられているみたいで、甘い芳香は初冬の外気に被われ、無味な情趣がほのかによぎってゆく。
無味といってもけっして味気ないわけではなくて、そう、ちょうど淡白な白身魚を口にしたときに似た軽減されることを願っているふうな充足感であり、新たな食思は不動の位置へとどまらず、さりとて一皿山盛りをたいらげたい思いは断ち切られもせず、微かな望みが透明度を増していくのである。あてなき旅に出かけたい澄んだ気分のように。
風呂場の小窓から覗ける空の色ほど明確なものはない。これは気分とはうらはらな視覚に促されているようで、湯加減に反撥する冷気の訪れはくだんの旅情を含みつつ、ふたたび現実的な輪郭を描きだす。
その臨場感こそ西日が届けてくれる贈りものに違いない。
黄昏のむこうに明日のあることをそっと知らしめるのであろう。


夢の作業にのめりこみたい一心で湯けむりがより濃くなればなぞと、額からぽろぽろ汗がしたたり出したころには創作の案にもやがかかり、見上げた小窓の空模様に願いを託せば、意想にあらがう勢いでそろそろエアコンのフィルターを清掃しておかなければ、寒さはつのりだし必要な務めだからと、そんな方向に考えがなびき、ふと湯船にひたった下肢をみつめては、なるほど身体もさっぱりして疲れもとれるのだから、こうした念がよぎったのかもっとである、あとで掃除しておこう、ちょうど編み目をかいくぐる様相で夢想をさえぎった。
しかしタスポを持った少年はどうしたらいいのか、父のおつかいでよしとして、また使い方も分かっているとし、だが、たばこを手にした直後自販機のまえへ出し抜けに現れた巨大な顔をどういうふうに解釈すべきだろう、湯気のごとく希薄でないはっきりとしたあの顔を。

見知らぬ大きな病院で迷ったあげく、入院患者に仕立て上げたまではよし、そろそろ病室に戻りたいのだけれど、東側や西側の病棟に惑わされている内心が妙に心地よく、また高所からの眺めに翳りをおびた愉しみを感じてしまい、そう慌ててみたところで別段おちつくわけでもないので、あくまで形式的に近くの看護師に所在を尋ねてみたところ、たぶん向こう側の病棟だろうと明るく応えながら何かひとことふたこと喋っていたのだが、以外にもその看護師が高校の同級生であるような気がし、よく顔を見つめれば間違ない、声の調子にだって聞き覚えがある、どうやらこんな場所での邂逅に胸がさざめき、更にはすこし奥のナースステーションで大きな地図をひろげている患者の真剣なまなざしに同調したにもかかわらず、迷路をさまよう心もとなさが他人事のように思え、看護師に礼を言ってはなれ際に彼女の名を呼んでみたら、
「私にだってわかっていたのよ」
と明朗な言葉が返ってきた。

タスポの少年は今日も大きな顔と出会うのだろうか、その心情を恐怖だけに縛りつけるのはあまり本質をついていないような気がして、ゆっくりまばたきを行なえば縹渺とした曠野が湯けむりのなかへにじんだ。