美の特攻隊

てのひら小説

夜へ

白雲がよく映えた夏の朝、列車を待つホームから遠い町へとのびるレールにふりそそぐ陽射しをゆったり見つめながら、何故かわきあがるべき旅情を制するような、物おじが先立つ足もとに気をとられてしまって、その影は反対車線のさきほどから鈍いを音を放っている車両の下へもぐりみ、見知らぬ土地にまぎれこんだ幻像を浮かび上がらせると、時刻表に則する規律に重なり合ったまま次の駅の光景を、卑近なたたずまいを一変させた。
それはなき恋人が微笑みかえすような切ない情感を宿し、
「手荷物は重いほうがいい」
あとわずかな時間ですべりこむ列車に乗りこむ気概がそんな声を耳にもたらした。
いや、本当はバックはおろか腕時計さえ無用であって手ぶらを望んでいたはずだ。どうしてかさばる荷物を持ち運ばなくてはいけないのだろう、まるで緊急事態の警報によって促された口ぶりではないか、むろん声の主がなき恋人であるはずはない、だとすれば箴言めいた耳鳴りは不協和音によどみ、生理的嫌悪を催させるのだけれど、よくよく思案してみれば凶事の形骸だけを簡素に伝えようとしているだけに過ぎなく、掌が覚える重みは転じ、葬儀から解放されたあとの厳粛さをはらんだ名残りでしかなく、やがては歌劇など鑑賞する優雅さを含みもっているかも知れず、さらに優雅さとは歌劇以前の効果音を鮮明に耳朶へ送り届けることであって、現実感が希薄になるというより、拭われるべき音像に包まれていた来たるべき夢見をひもとくなら、心地よく神経を逆なでしてくれるに違いない。
決してあらゆるものに対し耳をふさぎ、目を閉じたわけではないことは、ちょうど蒔かれた種子が日毎に成長する姿を欠かさず見続けているより、つぼみが開花する待望の日まで待ち受ける方が、大きな感銘を得るよう、過程に一切まなざしを遣らず、その先に現われる結実だけ願い通したとしたら・・・さながらタイムカプセルに封じて未来へ送付したのだとすれば・・・必ずしも影の中だけに冷徹さを呼び込み潜んでいたとは言いがたく、何故なら夏の鮮烈な陽射しは、夜のとばりに大きく首肯すると漆黒のうねりを意志なき素振りで招き寄せ、自らの分身である様相にむかいながら、あくまで悽愴な美しさをかいま見せては華やかな、けれどもきわめて厳粛な二重奏を共振させていたからである。
見知らぬ、と言ってもまったく思い当たるふしがないわけではなく、ただ面識がないというだけで文面に立ちのぼる相貌よりただよう気配は濃淡の自在とは別のあり方に頼って、胸の片隅に置かれていた。
夢の不思議はそんな相手をどういった筋道で駆りだし、浮上させるのか。しかも淡い憧憬が字義通り初恋に似た情調に導かれ彷徨いだせば、まさに日頃の町並み、ゆきかう通りにてその面ざしと出会うのだったが、覗きこそ夢の特権などと驕慢な意識は到底はぐくめなかったし、なにより不可避であることは自らの羞恥が心得ていた。
その恥じらいは日毎の成長から視線をはずした欲望をあと押しする不遜にしっぺ返しを受け、火照るはずのない頬は、まるで徘徊に興じていた足もとへの叱責にも感じられ、偶然だろうが無稽だろうが、悟られる瞬間を回避するしかなかった。覗きこそ撮りたい発心なんて、ひどく観念的な謂いを思い浮かべればがさりと位相がゆらぐ。
しかし問題は熱射病に冒されたふうな情況をはるかに凌駕していた。
夢の邂逅から間もなく寄せられたあまりに唐突なその報せをどう解釈してよいものやら、が、非常にとまどっている由縁はさほど意味をなさない。それはかつての記譜法が弛まず用いられており、夢幻を空に仰ぎ、異形を大地に見届け、透き抜ける情念を海原に捧げた技法はおそらく正鵠を射ておらず、むしろ造反の昏き意想にゆだねられていたからである。
とはいえこれから綴るあらましの信憑はいつかの肝試しを彷彿させるだけかも知れないし、背筋に走る冷ややかな薄気味悪さを想起させては暗幕に閉ざされ、微塵の本意も秘めておらず失笑を買うのみかも知れない。戯言の条件で満たされるほどに、風物詩は傷つけられ、世迷い言が大手をふって歩きだしかねない旨を、墓碑銘がしめすあの絶え間なき静寂に敬意をはらい記しておく。

家族連れと見える四人はあらかじめ指定されていたかのベンチに腰をおろし、きらめく陽光を背に受けながら、これからはじまる旅の空を思い描いては屈託のない笑みを投げかけあっていた。
年子だと穿ちたくなってしまう男の子と女の子のいたいけな両足がじゃれあい、交互に影をまるで振り子のように泳がせている。
まなざしはそんな穏やかさに親しみを覚えていたのか、あとわずかの時間で到着する列車の轍へと伝わる振動を風と見なした。
季節のめぐりに立ちすくみ、もろ手をあげてみたいのびやかな衝動に歓びを感じ、頬をなでる髪の軽い心地を想い返す。今が盛夏である景趣は退き、駅舎の陽だまりから放たれる匂いは中空を舞い、帰巣にはまだ早いカラスの飛翔が遠い衛星の陰をなぞれば、目的を眼前にひかえながらその目的さえ反古し、さきほどの時刻表の文字がゆっくりと溶けだす。やはり今は夏の盛りなのだという気持を胸の鼓動がいさめ続けている。
両親から距離をとった子供たちに優しくも手厳しいひとことふたことが投げかけられると、ふたりして血の通った表情が大仰につくられ、ちいさな奇声はほどよい半径の裡にゆきわたる。
秋かもしれない。異国の狼の群れが野山にこだまを飛ばす。そう、次なる駅のさきにはトンネルがあり、トンネルを無数にくぐり抜けたさい果てには異なった季節が訪れていることであろう。

吸血鬼退治を依頼された。くだんの見知らぬ人物によって。
これまで禁断の裾野に幾度か足を踏み入れたことはあったけれど、単身にての対峙は初めてであり、安請け合いも甚だしく、かろうじて意欲の連なりのたなびくゆえんは、うつろな絵空ごとが背景にまわり些細な矜持をほのかに照らし出してくれたおかげ、たとえ錯誤であったとして、偏狭に苛まれていたとして、その不甲斐なさの乗じる場所に映りこむ影絵は幾分か濃淡のみの世界から逸脱し、いつしか万華鏡の色彩に描画されようときらめきを求めだす。
過去の夢魔は早熟果実の甘味に包まれた馥郁たる香りを予感させ、あでやかな想い出となって月光の彼方へ消え去り、夜明けを迎える頃には、魔術によってきつく縛られた氷嚢が、陽光に汗を滴らす場面と同じく時刻ともども溶けだしてゆくのだろう。
現実はずいぶん勿体つけて正体をさらす。
道具の仕入れには念をいれたつもりだ。効験を過信してやまない聖水の入手は思ったほど困難でなかったが、聖油、聖土はかなり怪しい経路を伝った。魔性を突き抜けまごころまで映し出す鏡に手垢は許されず、霊験を高めようとしわのばしにアイロンがけした護符は危うく焦がしそうになった。ニンニクはスーパーの野菜売り場で、聖書は本棚からずいぶん古びたものを引き出した。杭の類いは失敗のおそれなきようホームセンターで鋭角で重みのあるものを数種そろえた。さて十字架であるが、手持ちの装飾品すべてをかばんに放り込んだ。銀製には拘泥していないという心情のなせる所為である。
実際には退治道具をふるう舞台は前景へせり出してこない。むしろ吸血鬼が夜気を讃えようとして翻す漆黒のマントにすべてのみこまれて、その裏地にひろがる真紅のかがやきによって生じる恍惚の支配から逃れるすべなきうち、続けざまに夜の遠浅の海岸へと思慕はひろがる。月あかりに現れる明確なひとこま・・・砂浜に埋もれたふうな物腰はすでに退治どころか攻める意気さえ放棄しており、一刻も早く、が、相反するよう出来るかぎりゆるやかに首筋へその尖った犬歯を突き立てて欲しいと願う浅ましい影に深く被われる。
魔性の特権、不老不死を乞い求める意志ではない。それは歴史時代をくぐり通そうなんて気概とはうらはらの、もっと即時的な、まばたきより一瞬の情事に身をやつす悦楽と恐懼をさずかりたいだけの、生死を不可分なく謳歌する太陽の無垢にあぶり出された詩情に他ならない。
片やさすらう夜風に呼応する夢の潮騒の調べは、駅から駅、トンネルからトンネルを通過する車両の響きと折り重なり、夏日の下に色彩を流しつつ暗黒に遮断される。なき恋人の面影が白い雲に霞む。
果たして吸血鬼を葬れるのか、列車の到着を待つあいだ、罪をまとった瘴気はあらかた滅んでしまっていた。