美の特攻隊

てのひら小説

ロマン

ペルソナ〜46

決して声をかけた方向に寄ったわけではなかったが、美代の言葉は塚子との距離をせばめていると錯覚してしまう効力を秘めており、それは金縛りの状態をあらわにしているのではなくて、むしろ特異な磁場で浮遊しているような不均衡ながら危うさを示さない様子…

ペルソナ〜44

少しばかり喧噪から奥まった雰囲気が感じられたのは、どこか昭和を喚起させる素っ気ない店内の作りに相まって出汁の匂いがしみじみと鼻に香ったからだろう。特に古びた木目が際立つ壁面でもないのだが、飴色をしたカウンターやテーブルには時代がかった味が…

ペルソナ〜43

「やあ、元気そうだね。あれ以来だけど、ごめん、連絡しなくって。去年の夏はいろいろありすぎたせいかな、寒さはけっこうきついよ」いまにも粉雪が灰色の空から舞い降りて来そうだった。純一はダウンジャケットのファスナーをしっかり引き上げる仕種をした…

ペルソナ〜42

孝之の悲願は見世もの小屋に遊ぶ心理と比べてみてどこも遜色がなかった。初秋の午後を吹き抜ける一陣の風に夢を託す。季節が人々を培う風景は凡庸であることから解き放たれ、ときには信じられないほど美しく輝く瞬間を秘めている。陽子の出現により挫折しか…

ペルソナ〜41

「それで三上さんは今こうして美代さんに会われたわけですか」孝之の声色にはあきらかにおののきが加わっている。「そのようですね。私は砂里に上手く先方にたどり着けたらメールで連絡するよう言っておきました。まさかいきなり直行されるとは考えてもおり…

ペルソナ〜40

「吸血事件で胸を痛めましたけど、募る気持ちは美代ちゃんとの想い出でした。時間というものは冷淡な流れですわ。あれから数十年を経た今では記憶こそ鮮明ですが、今現在のこころまで支配する能力は失われてしまい、残されたのは甘酸っぱい気恥ずかしさと、…

ペルソナ〜39

美代の存在をあらためて間のあたりにする意識が逆巻き、孝之は夜の河で出会った夢の光景をふり返ってみた。とても長い道程を経て深沢久道の背後に、そのすがたを透かし見たような心境へ至ったはずなのに、実際の出来事とは無縁のイメージがわき出して、三上…

ペルソナ〜38

固定された視線に輪郭が浮かび上がる。ドアのうしろにひとの気配を感じたのと深沢夫人が、「三上陽子さんという方がみえていますけど」声を出すのがきまり悪そうに告げに来たのはほとんど同時であった。美代のまなざしは動じない。純一と砂里はふたりして恐…

ペルソナ〜37

かつて兄から好色の目で眺められ、淫靡な思惑さえ抱かした妹、美代。久道の告白めいた追想は果たして脚色が施されていたのだろか。血の繋がった兄妹にもかかわらず欲情のおもむくまま禁令を越えかけたと云う、不透明でいて鮮やかな幻影を張りつける物言い。…

ペルソナ〜36

日暮れ時に覚えるやるせなさはどこからやって来るだろうか。ぼんやりとした意識からわき上がる霧の彼方に目配せをしながら、胸のまわりを繻子で撫でつけられるような感触は歳月に関係なくこの身に訪れる。今もまた、同じ想いのなかにゆっくりと横たわろうと…

ペルソナ〜35

さすが兄妹だけのことはある、孝之は不穏な気分の狭間からけむりとなって立ちのぼってくる感興を覚えずにはいられなかった。美代は生前から兄を敬遠していたようだが、思考の方法は似通っているし、聞き手を引き込む話しぶりは生写しと云ってもよい。三人は…

ペルソナ〜34

静かにドアは開かれた。二時ちょうどであった。泣きはらした目をハンカチで押さえてはいるが、哀しみのしずくはまだ枯れる頃合いを見定めていない。純一の手は砂里の肩先へこわれものに触れるよう、なぐさめを不透明にしてしまいたい想いからか、まるで小鳥…

ペルソナ〜33

親子が取り残された室内には不穏な気配も然ることながら、一種の空隙が特異な様相で現れ、あたかも大きくひろげられた断面図に阻まれたような息苦しさを覚えさせた。しかしそれは、見ることも、聞くことも、嗅ぎ分けることも、触れることも叶わず、真空状態…

ペルソナ〜32

深沢の家が目前にせまったとき、孝之は期待と不安がうわずみで交じり合っている興奮を感じないわけにはいかなかった。さほど深刻ではない、もっと仄かに宙へ浮く現実離れしたような空気が身を包みこむ感覚。小学校の運動会で毎年憶えた即席の孤独感、遊戯の…

ペルソナ〜31

波紋が消え去るように砂里の笑みが面からはなれれると同時に純一は言った。「なんだよ、せっかく彼女だってここまで来たんだよ。ぼくだってそうさ、手を取り合って突き進むためにこうしてここにいるんじゃないか、それを土壇場になって考え直せはないだろう…

ペルソナ〜30

肩に触れた黒髪は風にそよいでいるようであったが、澄んだ空気は動かないままじっとこの瞬間を愛でていた。孝之のこころにも凍結とは作用の違った揺るぎのなさが到来していた。それが寸暇であることはわかっていたし、通りすがりに鼻をつく芳香みたいなもの…

ペルソナ〜29

山間から町中へと引き返すときも又サンダル履きで駆けゆくような素早さであった。ひとつしかない改札口は駅舎から多少離れたところからも見通せた。朝からの快晴は午後を過ぎても変わらず、青く澄みわたった空にはとんびが数羽自在に飛びまわっている。車が…

ペルソナ〜28

渓流の音を耳にしながら食べる弁当は、緊迫した時間の合間にふさわしくそつがないように思われた。公園まであと少しのところだったが純一の提案は正しかった。が、いざ弁当のふたを開けてみると著しい違いが両目に飛びこんできた。「ごはんが白米だ」純一の…

ペルソナ〜26

あらかじめ書きあげられた脚本を読み上げるふうに、これまでのいきさつをかいつまんで深沢の妻に伝えると、思いがけない反応が返ってきた。「主人は磯辺さんのご名刺を自慢気に見せてくれたのでよく覚えています。ああいうひとでしたから、大学の先生がわざ…

ペルソナ〜25

秋風が静かに吹いてゆく夢の波間をさまよった。どんよりした念いから逃げ去ることは無理であったが、寝入り際に遠のく旋律へとすべてを沈みこませる滑らかさのお陰で悪夢に苛まれず、意識は薄明のなかでなかば好個な書物を読んでいるようなぼんやりした感覚…

ペルソナ〜24

「それでその長沼砂里さんは何と言ったんだい」孝之はすかさず初めて耳にした名前を口にして問いただした。「さっき話したように彼女のお母さんもこのまちが出身なんだけど、生まれは東京だし、その辺がぼくと似てるでしょ。そうしたこともあって学校の親睦…

ペルソナ〜23

寄り合いに行っておりつい今しがた帰ったばかりだと言う三好に挨拶したところ案の定、純一をいたわる声色はとどまることを知らず、萎縮してしまいそうになるほど厚い気遣いなので、「こうやって元気な顔を見てもらいに来たんですから、もう本当に大丈夫です…

ペルソナ〜22

駅に着くまで眠りこんでいた純一を揺り起こし、改札を抜けたときにはすっかり宵闇が地面から立ちのぼったふうに上空まで充たされていた。「やっぱり匂うよね、潮の香りほんの少しだけど」純一にしてみれば苦い経験を回想させる帰省となるはずだったが、妙に…

ペルソナ〜21

陽光はいっこうに衰えを見せなかった。十月も半ばに差し掛かったが蝉時雨はまぼろしの音色で真夏を留め置こうとしているのか、季節の実感は剥奪され異形な晩夏に席を譲り渡した。倦み疲れたからだを左右にずらすよう、いら立ちを噛みしめながらときのうつろ…

ペルソナ〜20

切手帳から取り出す慎重さが、それほど重要でもないように感じてしまうのは特に高価な一枚でもなく、ただ同じ紙質によってかたち作られ印刷されただけの類比では例えようない、哀れさみたいな親しみが「髪」の価値を本来の場所に戻すよう静かに願っているか…

ペルソナ〜19

小林古径の「髪」の魅せるものが、幼年の孝之を禁断の道筋へと案内しかけたのだとは言いがたい。深沢久道が語った妹と同じほどの年齢、まだ性が芽生えうるもなく、この絵があらわにしている乳房のなめらさから類推されるのは、湯船のなかで間近にされる母の…

ペルソナ〜18

孝之も熱心に収集したには違いないのだったけれど、小学校に通いだした矢先であり、折からの切手ブームの余波がいつの間にやら到来していたのか、思い返してみてもよく定めきれない期間に訪れた没頭であったから、それも心底から欲して小さな絵柄のとりこに…

ペルソナ〜17

息子の口ぶりにあらぬ気をめぐらせてみる疑心はどこへやら、怪訝な目つきを投げ返す素振りは、空っ風に吹かれて舞い上がる木の葉のように軽やかであった。片方の視力を失ったにもかかわらず半ば虚勢を張っている面持ちが痛々しくもあり、逆に初々しくもあり…

ペルソナ〜16

そっと静かに聞こえてくるはずの虫の音まで消し去られたのか、どれだけ耳を澄ましてみても孝之の耳に伝わってくるものはなかった。書き記されたもの、断片的でいいから、とにかく何かの手がかりになるようなもの。「主人は読書の割合からしまして、不思議な…

ペルソナ〜15

「果たして深沢はすべてを語り尽くしたのだと了解するべきなのだろうか。少年時の恥じらいで清らかに擁護された記憶が奏でる綾を」孝之は自分の小首を傾げる仕草さえどこか見え透いた演技に思われ、淡い不快を感じた。 彼と妹との関わりを何もかも把握するの…