恋愛 官能
「なにも答えられない、そう思われるのはわかっていました。手ごたえのなさに失望してしまう君の表情をただあるがまま浮かべているだけ、それは予感どころか、僕にとってなんとしても回避させなければいけない神経経路でした。しかしたえられないのは君だけ…
「お家に着きましたか。ごめんなさい、さっきは勝手なお願いをしてしまいました。とても胸がどきどきして、気持をはっきり伝えたいのにもじもじして、たとえ手紙を受けとってもらえても、わたしの表情ですぐにあなたは察してしまい、ぴしゃりと拒まれたらど…
額装におさまったふうな横顔を日に何度も思い起こしてしまうので、美子は仄かな水彩が少しづつ塗り重なってくる感じを胸中にとどめておこうと努めた。振り払ってしまうには頻繁過ぎるし、向こうがわに浮上する面影をとりたてて不快とは思わなかったからであ…
白雲がよく映えた夏の朝、列車を待つホームから遠い町へとのびるレールにふりそそぐ陽射しをゆったり見つめながら、何故かわきあがるべき旅情を制するような、物おじが先立つ足もとに気をとられてしまって、その影は反対車線のさきほどから鈍いを音を放って…
もどかしいほど静かなのね。ええ、とてもゆったりとしたさざなみが押してはかえし、かえすさなかあなたの産声をどこか遠くに耳へしたような心持ちが生まれて、それはそれは不思議な響きがするのです。でも生まれたてすぐさまの音色なんか、案じてみてもとり…
もし私が感情表現を持ち合わせていなかったとすれば、当然ながら表現以前に接点さえあやふやだと考えてしまうところだが、果たしてそれは確かな解釈であるのだろうか。表現にとって感情は常に不可欠でなければならないと仮定してみると、喜怒哀楽がわき起こ…
うららかな春日和の過ぎゆきとは無縁だったのだろうか。やるせない午後の気色に身をまかせていると、階段を上る足音が聞こえてきた。遮光を願う意識には秘密がほの明るく灯されている。性急な心持ちがやんわり抑えつけられてしまいそうに弱々しく、か細い、…
短い突風が去ったあと、ひとりになった初恵はぼんやりと窓外を眺め、言葉を置き忘れたかの面持ちで呼吸をしていた。しばらくして憔悴の色を隠しきれない孝之が席に戻ってからも、この居住まいがもっとも適度な距離感を保ていると思い、網棚に荷物を置いたま…
太陽の意思ではなく白雲のわだかまりと、千切れ雲の気まぐれが光線の配分を決定し、車両の縁どりを見送ってゆく山々の夏木立が使命感に萌え、陰りのときを創出した。初恵のからだは陰陽に引き裂かれ、ことが過ぎてしまったあとの陽のひかりは白々しいばかり…
太もものつけ根まで左腕を忍ばせるにはどうしても半身を窓際へとひねりこみ、通路側へ背を向けてしまう恰好をとらざる得なかった。となりや斜めうしろの乗客の目がこちらに注がれてないにもかかわらず、きれいさっぱり拭いさることが無理だったのは、これが…
夢の偉大さは、なにより空白と沈黙をもたないことにあった。それが思考空間であれ叙情光景であれ、ゆらめく旋律も歯ぎしりのような騒音も、すべて見て聞かれることを大前提に上映される物語であるからだ。もっとも停電みたいに視覚が奪いさられるときには、…
初恵の瞳は繊毛を想わせる微細な感情で揺れているようだった。孝之から見れば、その姿はけっしてさまよい出してはいけない閉じられた押し花だったのだが、それは夜の夢とは異なるところ、濃霧によって秘められた隠れ里の様子が、年に一度うかがい知ることを…
流れゆくはずの窓のむこうに時間は生起していない。孝之の目は特異点となることで後退する背景はむろんのこと、初恵の残像さえもその場からにわかに消しさった。するとひとこまが次のひとこまに瞬時に移り変わるようにして、あらたなの姿態が形作られるのだ…
もの思いが唐突であれ、緩やかであれ、訪れるやいなや脳裏から振りはらおうとするとき、ほこりをはたく調子で軽やかに速やかに消えてなくなればと、あらためて念を押すような心づもりがあるわけでもなく、しかし、念押しされる特定の箇所がきわだって、そう…
山腹をきわどく縫いながら列車は走行してゆく。時折、山林が切り開かれたところから下界を見おろす場面が現れるのは、かなり高所であることを実感させ、そうかと思うと次の瞬間には漆黒のトンネルへと吸いこまれてしまい、またもや車窓に浮かび出る自身の半…
春の陽は長く感じたが、気がつけば宵闇はすぐそこにせまっていた。孝之にも家内にも暗影は忍び寄る。息子はと見ればまるで光源を背にした独裁者の孤影のように、危うさはらみつつも飛び立つ鳥に似た警戒心を先取りしており、それが一種の確固とした信念にも…
同郷であること、確率的に考えてもこの特急に居あわせる乗客の比率は高いはずだった。車両のなかには他にもまだ幾人かは乗りこんでいるかも知れない。もっとも孝之は町外れの山村で生まれ育ち、高校からは東京で過ごした為にあまり顔なじみはいないのだった…
孝之から発している独特の雰囲気が初恵を朝もやのように包みこんだのは、彼自身の接しかたによるところも貢献したのであるが、初恵からしてみれば現実の大人たちに否応なしに結びつけていることとは、絶えず日常のくり返しと些事によってでしかなく、大学教…
偶然とはいえ故郷に縁のある大学教授と隣り合わせの、しかも列車内と云う情況が初恵を高揚させた。もともと権威や勢力などへの興味は薄かったのだが、義務教育の地続きである高校生活から社会への前哨戦とした旅立ちにも似た専門学校への入学を経て、そこで…
「じっとわたしの顔見つめてたからどうしたんだろうって、誰かと勘違いしているんじゃないのかなとか、よく似たひとだと思っているのか、それから、、、ひょっとしたらわたしのことが気になっているのかなって」「たしかに気になってました。さっきも話しま…
特急列車の走行音と振動は懐かしさをひかえめに響きわたらせてるように聞こえる。所用に手間取ってしまい駆けこみに近い勢いで乗車してから指定の席を見つけ、このまま乗り換えなしで到着する町までしばらくのくつろぎが約束されている気がした。目を閉じあ…
墓所がもし貯蔵所であったなら、、、暗色にひろがる荒涼とした無限に約束された眠りの遺骨は屍であると同時に、爛漫たる躍動に満ちあふれた大いなる沈める帝国かもしれない。わたしと云う君主を戴き、風となって野山を駆けぬけ、山稜に飛びあがり白雲をかす…
夜霧が何のためらいもなく晴れていくように、漁り火が静かな別れを告げながら遠ざかっていくように、めざめはいつもと変らず待っている。谷間をつたう清水に足もとをひたす感触が、ちょうど冷水で顔を洗う手間を先取りしてくれていればなおのこと、いつにな…
久道の大きな危惧の念とは、とにもかくにも彼の主張する神秘の扉が開かれたとき、果たして人々、軍事大国首脳らが、どのような対処をもって未知なる存在を受け入れることになるかと云う事態にあった。だが、長年の考察によれば世界各国にはすでに異星人の塁…
ことさら世情に造反したかの態度で今夜自室にこもり、コリン・ウィルソンの大著「オカルト」を耽読していたのは、傍目から見れば少しばかり奇特な様子に思われるかも知れないが、深沢久道にとってみれば、きわめて明快な意味あいしかそこになかった。花火大…
陽光がまぶたのうらに赤く染みこんだかの記憶は茫洋としたまま、しかし追想される、きれぎれなひとこまのなかに於いてひび割れのように引かれた、あるいは二枚貝がわずかに海水をあらためて含みいれる様相で、薄目をかすかに開くと、月あかりの有為転変を眼…
洞穴の出口にようやく近づいてきたのか、ほの暗いなかをいつか想い出のうちに印象づけられた淡い光線が、まぶたの裏に幽かに甦ってきたのがわかり、ためいきに似た気休めをもらすも、しかし軽微な希望であることを決して忘れ去ろうとはしなかった。意識の黎…
酒の肴にと奥さんがさばいてくれた、あじととびうおの刺身をつまみながら、口中に新鮮な青りんごをかすかに思わせる白ワインを含めば、潮の香りが風に乗って遠くまで運ばれ、人気のない山村に生える果実の木のしたへと、まるで眠りをもとめてそこへ安息する…
いつの頃のものかはわからないが、十分に時を経た木桶は、この畳部屋に備えられると見事なまで風趣に富み、恰好のワインクーラー代役を、いや、それにとってかわる役柄としての調和をみせていた。 あべこべに孝之が持参したフランス産ワインのほうが、浮いて…
古びた佇まいながら、玄関のガラス戸や格子が醸し出す風情には泰然とした郷愁が備わっており、屋内の印象も同様、あらたに増築された部屋は別としても、木目を土色にくすぶらせ、天井があたまの上に張りついているかのこじんまりとした造りは、現代からみれ…