美の特攻隊

てのひら小説

恋愛 官能

夜の河 〜4

その日、深沢久道は所用で車を走らせながら、昨夜みた夢がどうしてこんなに印象深いのだろうかと首をかしげ、川沿いの道に出たところで浴衣すがたの若い娘とすれ違ったのだが、次の瞬間、ふとサイドミラーに目をやった時にはすでに距離を隔てており、しかも…

夜の河 〜3

ほの暗い眼をした見知らぬ男が、すれ違い様に何とも薄気味悪い笑みを浮かべる。暗鬱な余波だけを残して遠ざかってしまう男の行き先を初恵はなぜか知っており、それが恐ろしく矛盾した思念であること、はかない定めと了解しながらも、男のたどる軌跡に一抹の…

夜の河 〜2

初恵は神木と伝わる大楠の木陰で涼をとってから、港のにぎわいが潮風をはらんだほどよい熱気に感じられ、川縁に沿って海岸の方へと歩いていった。鉄柵がいくらか低くなった辺りにきて下方へ目をやると、垂直に切り立ってはいないが傾斜のきつい、コンクリー…

夜の河 〜1

生まれ育った町を離れ専門学校のある都市で過ごした一年目の夏は、帰省にあたり結城初恵を瑞々しい陽光で向かい入れた。正月には帰っていたのだけれど、冬着の重なった衣服のせいなのか、直接素肌全体に光差すのをこばむかのように、その冷たい上空からの陽…

投函 〜 あの夏へ 38(最終話)

出現と言い表わすには実感からほど遠く、疑似空間を再認識しようとすればあまりに近距離であって、飾り棚の人形を見つめるなまなざしが、そこに生身の生命を見いだそうとする幻視のような仕掛けなら、半身水中に没する浴衣のなりはまさしく実在を逸した、霧…

投函 〜 あの夏へ 37

意識の連鎖はふとした弾みで断たれたと云うよりも、それが必然の理であるように過去は隠れさり、いまここに未知なる映像がときの支配から愛でられていた。湿り気を含んだ磯の風が泥にまみれ、嫌悪までには至らないけれど好ましいとも感じられぬ匂いがあたり…

投函 〜 あの夏へ 36

放心から覚めやまない孝之は自身のいきさつを語ることより、フカサワと名乗る男が超常現象とやらでここに存在している理由を切に欲した。「わかりました。魚たちが飛びまわり始めるには少し時間があるようです。あなたが探している女性もそのとき見いだせる…

投函 〜 あの夏へ 35

「初恵は確かわたしの夢は見れないはずと言ったはずだが、、、それにしても夜の川ってこんなにも不気味なところなんだな」磯辺孝之はひとつの決意を抱いてここまで、息子に意見されるまま素直にしたがい、それはあたかも巡礼であるごとく恐る恐る、けれども…

投函 〜 あの夏へ 34

孝之のからだにぬくもりが伝わってきた。「まだ、出たらいけないのよ。あと、十数えるの」母のくちぶりには陽炎みたいなはかなさがあった。あの頃はまだ薪のにおいが通りを漂いながら、夕闇にひろがっていった。「ひとつ、ふたつ、みっつ、よっつ、いつつ、…

投函 〜 あの夏へ 33

孝之の目は渇ききってしまっていた。絶対の信憑などはなから存在しないことは承知であったし、あくまで夢語りとしての帰依とも云える王国、絢爛たる色彩、つまりは忌諱されるべく極彩色で描かれてこそ、そこに忠誠心が胚胎する仕組みであった。自分と云う入…

投函 〜 あの夏へ 32

孝之は素直に従った。初恵の言葉にではなく、夢の言葉に対してである。過失と裏切りと用いながらも、信頼と治癒をつかさどる、己の王国、あるいは過剰なる鬼門。紋切り型の鍵の象徴などは、文献のなかに考察するべきであり、さながら家族だんらんのクリスマ…

投函 〜 あの夏へ 31

「触ってはいけない、医者はどうしたんだ。すぐに手術してもらわなければ」あわてふためき突き上げてくる衝動に忠実であることを空間は認可しなかった。床が強力な磁場で形成されており、身動きとれないのが常套手段であるとしても、全身から生き血が抜きと…

投函 〜 あの夏へ 30

夜の海からゆっくりとわき上がる、落ちつきに満たされ出した気分にひたろうとする刹那、忘れかけていたもうひとつの感情が静かに、足音をしのばせたかのような慈しみをもってこの胸のなかに浸透してゆく。美しい音色でこだまする幽かな旋律は、思念において…

投函 〜 あの夏へ 29

線路と云う一本に連なる道行き。山間部を走ればすぐに待ち受けているトンネルと云う空間、母体に開けられた魔法の時間が過ぎゆく漆黒。トンネルをくぐるたびに孝之は、夜明けや日没の意志に促されるよう、思考がおおらかに切り替わってゆく快楽とも呼べる意…

投函 〜 あの夏へ 28

道行きを指し示しているのを億劫になる沈滞した気分が、さらにその場から動くことを怠るのは、ぬるま湯のなかに浸り続ける居直りにも似た情態であろう。車両が揺れるように、湯船は心地よさをぬぐい去ることなく、次第に冷めゆく身を憂いながら、それでも残…

投函 〜 あの夏へ 27

新幹線でN駅に到着した磯辺孝之は、特急へ乗り換え待ちのあいだに純一の消息をようやく得ることができた。三好の主人から直接の連絡であった。「だいじょうぶだよ、意識もしっかりしているし、本人は歩けるって言ったそうなんだよ。骨折はしてないようだ、打…

投函 〜 あの夏へ 26

両手を後頭部で支えてみるようにして、伸びた背筋のうしろすがたに気をとめてみたものの、裸のままそんなポーズをとるよう言った純一の思惑がよく解せないうち、背後から見つめられていると云う、気恥ずかしさが鳥肌のように全身を被ってしまい、「意識を背…

投函 〜 あの夏へ 25

予期せず眼前に陽炎のごとく現れた、冷たい至情を持つひとがた。鮮明な木立の陰影に隠された、歴然たる情感の波立ちのさきには、すでに序章が始まっていたのを意識しえない。だが山の神が微笑みかけるのなら、おそらく自分に優しく投げかけたであろうと想わ…

投函 〜 あの夏へ 24

過ぎゆく四季への目配せ、、、純一がこのまちで体感し想像した一種の儀礼。そして彼が東京から持ちこんだ、徹底した自慰の精神。これはおごそかに存続され、また両親の提案を受け入れたことと同様、表面的には妥協によってなかば解体されてしまった。だが、…

投函 〜 あの夏へ 23

吐息ととも熱気に冒されたあきらめを含んだとまどいが、遠い胸のなかで結晶のように成りかけるのをなかば知りつつ、また情念がことばとして紡ぎだされようとする今、秋風に吹きなだめられるやや渇きかけた純一のくちびるに対し、初恵は混濁した汚水があふれ…

投函 〜 あの夏へ 22

船着き場を横目に勾配が急になりつつある坂にさしかったあたり、右手には防波堤を乗り越えていくような浮遊感が運転席からも心地よさをもって高まりはじめ、その彼方に解放されている蒼海が見る見るあいだに視界に収められる。陽光のみなぎる鮮烈さは、フロ…

投函 〜 あの夏へ 21

小首を傾げ気味にした目もとは、身長の差で定置へと配属されたふうに、やや下方から見上げられる面を一層、小悪魔的な挑発で浮かびあがらせると、あたかも純一の視線にそって飛び火して来そうな勢いのまつげが鋭く、際どい電撃になりながらも、信じられない…

投函 〜 あの夏へ 20

目が覚めたとき、純一はここが何処であるのか瞬時に判別することができなかった。しかし、次のまばたきで確認された事態は、夢の出口を振り返る想いよりも先行された、外泊をしてしまった、三好の家に釈明を、と云った焦燥が前景に押し出されるのであった。…

投函 〜 あの夏へ 19

純一のこころに明滅し続けている照り返しは、波間に消え去る永遠の真珠のきらめきを感じとったからなのだろうか、少なくとも簡単な裏付けのまま<事実>の確証を得た初恵にしてみれば、深入りと呼ばれても言い逃れが出来ないこのひと月であった。実際に目を…

投函 〜 あの夏へ 18

振り返っても、そこに届きそうなくらいの距離しか持たないと感じさせる夏陽に、まだ惜別を情をはらませる理由が見つからないのはおそらく、時間への配慮が瑞々しい気持ちに包みこまれており、あえて刻一刻この身に知らしめる必要がないからなのだろう。秋の…

投函 〜 あの夏へ 17

街灯のわびしさがこれほど夜を演出している光景を今まで見たことがない、、、ましてや盛夏に向かおうとする時節を気に留めず、知らぬ間に飛び越えてしまった薄ら寒いこおろぎの音を潜ませる青草が、こんなにもぼんやりと火照っている様子を。このまちに来て…

投函 〜 あの夏へ 16

歩く時間を閑却させるほどすぐ近くにあるスナックのカウンターに並んだときの別種な気分を味わっている間もなく、香穂が乾杯とともに一曲歌いだすと、他の客らの手拍子が加わって、にわかに雰囲気は明るくなり、とくに遠慮してみたわけではなく、三人のあと…

投函 〜 あの夏へ 15

小さく、しかし大胆に耳の奥へと吸い込まれた麻希のひとことは、初顔あわせした今夜の時間の流れを一瞬にして固定してしまい、つかみ取れないないままに指先から逃げさってゆく期待を芽生えさせた。そう感じられたのは、予期せぬ僥倖に先んじることで受け入…

投函 〜 あの夏へ 14

麻希と格別に込みいった会話を進ませた記憶もない、数日たってその夜のことを思い返す度にまず狼煙のよう上がってくるのは、くだんの老成を先取した、完熟トマトみたいに鮮やかな内にも酸味を残すことを忘れない、夕陽を彷彿とさせる笑みであった。隣席の香…

投函 〜 あの夏へ 13

麻希や森田らの親しげな会話は、更けゆく夜の気配を招きいれたとでも云うようにして、十分に明るい店内へと忍びよった微風の如く、一層こうして対座している場面を、テーブル上に運ばれている各自の飲み物や料理の並び方を、それとなく意識させる、あの読点…