美の特攻隊

てのひら小説

鉄橋から来た少年

社会人になった夏のこと、そう記憶しているのは初々しくも溌剌とした心境と燃え上がった太陽が互いに認め合っていたという強引な解釈なんかではない。あの日の光景を振り返れば、自ずと勤務先の会社の窓ガラスに張りついた天候がまず一番にまぶた焼きつけられている。頼りない切なさで、だが有無を言わさぬひろがりで照りつける西日の赤み、今日も残業を懸命にこなすんだ、盆休みはもうすぐ、今年の帰郷は学生時代とはどことなく違っているだろう。

「この書類、急いで総務課に届けてくれる」

先輩の女性事務員が放つ冷ややかな口調に反感など覚える余裕はあり得ず、むしろ歪んだ憧れを飲み込む加減で的確な命令としてすぐさま立ち上がった。ただし手渡される際にあえて卑屈な目つきをしたのは、ちょっとしたいたずらであったような気がする。

慌てていたわけでなかった、決して。なのにたいして長い廊下でもない途中で足を滑らせ思い切り腹這いに転けてしまった。理由は一目瞭然だった。一面水びたし、誰か飲み物でもぶちまけたのか、いや量的には大きな花瓶の水かと疑うほうが似つかわしい、生成り色した固い廊下にひろがった水は憎らしいほど澄みきっている。そして書類も見事に被害を受け、文字はにじみだしていた。

気まぐれな夕立は形式的にひかえめな雷鳴を引き連れて先ほどまでの空模様を一変させた。外はにわか雨か、、、あの刹那のため息が忘れられない。

当時の夏期休暇は現在ほど日数を与えられていなかった。せいぜい三日、そして列車の混雑を嫌というくらい知っていたので、一日早く故郷をあとにしなくてはならない。僕の帰省は輝くような二日間に凝縮されるはずであった。

たとえ前の夜、アパートの隣部屋の学生が女を連れみ、興奮のあまり、声を抑えることさえ放擲してしまって、歓びにあふれた喘ぎをまき散らかしていようとも。そしてほとんど空っぽの押し入れにそっと身をひそめ、薄壁越しにもれてくる交わりの様子に聞き耳をたてている不甲斐ない自分の姿を知ろうとも。僕にだって同じ経験はある、ここよりもっと古い部屋で始めて女体に触れ、両隣の気配を意識しつつも鼻のあたまに大粒の汗を乗せながらうれしさに溺れていったのを。

あの少年が生家の玄関に佇みさえしなければ、、、

 

お盆はみんなそれぞれ忙しかったのか、父も母も祖母も誰も家に居らず、僕はのんびりとひとり、開け放たれたガラス戸やふすまから送られてくる生ぬるい微風の感触を寝転がったまま懐かしんでいた。玄関先はさすがに無防備でなかったと思われるのだが。

「ひさしぶり、あそびにきたよ」

突然の珍客に驚くと同時に、たぶん近所の人懐こい子供がなんの考えもなくふと飛び込んできたのだろう、ほぼ間違いない推測は僕を大仰な表情へと流し、猶予をたたえた胸のなかに案内した。大義そうに起き上がり、

「そうかい、なにして遊ぼうか」

とにこやかに言った。

「そとにいこうよ」

「なんだい、家に来たんじゃないの」

「うん」

無邪気さにほだされたのは確かだったろうけど、十歳くらいの男の子にこもった目の色を素直な気分で見つめてあげることが出来なかった。ささくれのような小さな痛感が走り、急に疎ましくなった恋人を前にしたときみたいな声がすっと吐かれた。

「またおいで。今日は用事があるんだ」

すると男の子はまるでいくつか歳が足されたふうな顔つきになって、

「ようじなんかない」そう、ぴしゃりと蚊を叩く調子で言い返す。

「えっ、どうして」

僕を包んでいた空気の匂いが少し変わるのを感じた。つまり動揺した。

「ようじはつくるものだよ。そのためにわざわざ、、、」

不意の続きの言葉をさえぎり、子供相手のもの言いを中止しようと思ったのは他でもない、不安がすぐそこに燻っていて、見過ごすにはわけにはいかなかったからだ。他愛のなさと打ち捨てる要因はすでに退いている。

「わざわざ来てくれた。で、誰の使いなの」

「そとにいこうよ。そうすればわかるから」

こうして僕は、日差しの衰えをまだまだ感じそうもない空の下、油蝉が電柱で高らかに鳴いている町なかへ少年と並んで歩きだした。すぐ先の陸橋を渡りかけたとき、少年の背丈がわずかに伸びた心持ちがした。そんな胸中を察したとでもいうのか、

「このずっと先さ、でもこのあたりでも遊んだことあるよね」と、さながら観光地を再訪したような静かだが、老成した情熱をかみしめているような口ぶりで話しだした。

「そこの市役所の駐車場でよく野球してただろ、ぼくも一度だけ仲間に入れてもらったことがある。この山もえらく削られてしまったね。きみらのあとを追っかけてのぼったもんだ。土俵はまだあるんだろう、祭りもあった。キンコンカンはここから鳴らすんだった、間近で聞くとけっこうな響きなんだよなあ。夕暮れ五時の音」

僕のくちびるは微かに震えていた。

「ほんとうに誰の使いなんだい、知らないひとじゃないよな」

「きみは知らないかもね、でもぼくは覚えている。きみらが喋っていたことを」

「なんて」

「いま言ったじゃないか、ぼくの家はまだ先だよ。だから実際にこの辺まで来たことはないんだ。うらやましかった、山にだって空想でのぼったんだ。きみらに話しをもとに」

横目で少年は促した。登り口がひっそり陽光を受けている。取り囲む緑の濃さは道ばたの比ではない、そう言いたげな瑞々しい茂りは光と影を一枚一枚の葉の裏表に宿し、風と戯れ、まばゆさを小刻みに投げかけて来る。応じるまばたきの裡へ暗黒を点滅させるために。

坂道を下る歩調に乱れはない。草いきれをあとににし、ついでに追い立てられた蝶のつがいがふわりと羽ばたく様相でふたりは軽やかに居並んだ。そして更に少年のからだつきは変貌し、面に張られた微笑は分別くささを香らせ、僕を馴化させた。

「もう大人なんだろうね。しかし思い出せないんだ」

「仕方ないよ、三年生のときだもの」

「ああ、途切れ途切れ、憶えているのは理想的な情景だけだよ。もちろん不快なものだってある、でも面白いね、乳白色のぼかしが嫌な記憶さえ意味を剥奪してくれている」

「そこを曲がろう」

右手の小径に足を踏み入れる。こんな場所あったのか、、、が、不思議と懐かしいような、あるいは怪訝な親しみが一歩さきに待ち構えていて、民家すれすれの道ゆきにはおそらく豊かな不安が沈みこんでいるのだろう、そんな思惑を足取りは警戒しない。うっすらだが少年の秘密をつかみ取れそうになっていた。

狭い小径を抜けた瞬間、ほとんど肩の位置が一緒であることに目を見張ったけれど、驚愕は不確かな夢の底で目覚めたのか、僕は黙って彼の言葉に耳を傾けた。

「ほらこの踏切、よく見てごらん。そうじゃない、ああ、言い方が適切ではなかったね、線路の光景だよ。もっと近づいてみよう。こんな距離でレールを見るのはひさしぶりじゃないか」

僕はすでに踏切の脇にしゃがみこんでいる。そしてもっと近くに、いや近すぎて見失うくらいの位置まで迫ろうとしていた。

うしろから少年はこの世の声とは思えない優しい響きでこう言った。

「線路は続くよどこまでも、、、この先の鉄橋は河口に架かっていて海を見晴らせるんだ。きみらが山やら市役所で遊んでいる頃、ぼくはひとりで鉄橋を渡っていた。そして時刻通りにやって来た列車にはねられ河口に落ちた。死んだからに落ちたのか、衝撃ではね飛ばされて水死したのか、どちらにしても僕はきみたちのすがたを学校で見ることが二度と出来なくなってしまったんだ」

ゆっくりと振り向く僕に対し、少年は冷たい笑顔で応じてくれた。釈明を従容として聞き入れる時間を保ちつつ。

「名前も忘れている。だって同じクラスじゃなかった。同じクラスの子だって憶えていないくらいだから。ごめん、言い訳だよな。全校集会で悲報とともに厳重な注意が話されたのは記憶にある。でもすぐに忘れてしまった。きみの名は、、、」

「いいんだ、言っても知らないと思うし、そんなことは重要なことでない」

「だったらなにが」

「線路だよ。鉄橋とは反対のところ、駅が見える場所さ。きみはぼくが死んだ頃、枕木の修理でくぼんだ穴に入っていた。格好の空間、危険な遊びだ、まったく。時刻表に罪はない、きみは発車の音に身をこわばらせてあんな小さなくぼみに命をあずけた。轟音は闇と共謀して頭上をふさぐ、時間に忠実に。ただ、きみの時間は恐怖に操られていたし、反対に恐怖は忠実な妄想をあたえていった。それから誰彼ではなく、信じてくれそうな子だけを選び、まことしやかに体験談を語りつくしていた。後年、きみは」

「そうだ、そうとも。あれは現実なんかじゃない、かと言って夢ではない、その中間なんだろうか、たぶん。違う、そんな簡単に割り切れるもんでもない。もしあんなこと実際に起っていたら大騒動だったろう。けどあの枕木と枕木の間のくぼみははっきり目にしていたよ。毎日、学校に通うとき陸橋のうえからいつも眺めていたんだ穴が開くほどに」

「さびしかったのかい」

「よくわからない。きみはどうなんだ、列車にはねられるなんて。さびしいのはそっちだろ」

「さあ、どうだろう。少なくともぼくは、広々とした海に臨み大きな潮風を受け優雅な足付きで楽しんでいたように思う」

「でも死んでしまったら終わりじゃないか」

「そうさ。なんとか認めている。それよりどうしてあんな遊びを想像したんだい。いつかきみは思い出すだろう、今日のことではないよ。ぼくが列車にはねられた痕跡を。微量だけど血痕とか毛髪とか、ひょっとしたら肉片なんかもこの踏切まで運ばれてきたかも知れない、線路は続くんだ、どこまでも、都会までも。これは紛れもない事実だろ、きみの好きなくぼみ辺りにも」

「まるで脅迫観念じゃないか、結局こういうことだろう、きみの死はぼくにとことんつきまとう、今まで封印してたのは僕が分別を持ち得てなかったからだ、でも社会人になって一丁前の悩みなんか抱え、自分のことと他人のことを区別して考えたりする。そこでようやく忘れ去っていた空想を掘り起こし、穴をふさぐためにきみはいきなり、なんのまえぶれもなく現れた、盆だから、関係ないね、取り憑く機会がいい具合に訪れたってわけなんだろう」

「補填作業員ってことか。だったらそれでいいよ。でもこれだけは言っておく、考えるのぼくじゃない、あくまできみの方だ」

「そうかも知れない。しかしきみのことはもう忘れないよ、ていうか、忘れようとしても無理だ、酷いよ、まったく。亡霊だろ、さっさと成仏してしまえばいいんだ」

「あんまり怒るなよ、哀しくなるじゃないか。そんな目で見ないでくれ」

あの時、僕は正直、悔しくてしかたなかった。線路と列車の織りなす想念なんて別段めずらしくもない、もっと危険で惨たらしい情景を想い描くのは子供の特権ともいえよう。どうして僕のところに化けて出たんだ。一緒に遊んだ記憶のかけらもなければ名前だっておそらく耳にしてもわかるまい。意味なんてあるのか、あるんだったら、中途半端に消えてしまわないでほしかった。哀しくなるのはこっちだ、捨て台詞だけ決まりごとみたいに残していきなりは勝手すぎる。どんな目で見たっていうんだ、その目の残像さえ霧散するよう、あいつはそれきり僕の前に現れはしない。

おかげで二日間の帰省は単純な輝きを含みきれず、それは好奇も手伝っていたので一概に憤懣だけに彩られていたわけではなかったのだが、近くに住む同級生にくだんの鉄橋事故を尋ねてみると、どうやら実際の出来事であったのが判明し、夏空に雨雲がかかるよう鉛色の心境は増々深まるばかりであった。

とはいうものの、亡霊の消える直前をよく思い返してみると、その顔かたちに年相応の輪郭と風合いが備わっていたのが妙に心安くもあり、そう、僕自身の面影なんか漂わせていたら目も当てれなかったのだろうが、見知らぬ他人ぶりが鮮やかだったのでなによりの救いとなった。

社会人らしい分別とは正反対の、垢が剥がれているふうな、元々あった汚れが段々と落ちて奇麗になってゆくような洒脱さが感じられた。これこそ生者と死者の分かれ目などと適当な意味をこじつけてながら故郷を離れた。なるほど線路は続く、しかし物語は短い。

そんな意想をあざ笑うごとく、幾度もトンネル内に飲み込まれた車窓に、ぼんやりと幻影らしく反映したあいつの顔はそれほど悩ましげでなかったから、僕はほっとしている。