美の特攻隊

てのひら小説

ハンスの物語

「その時間なんだよ」

皆の注目を一身に浴びたハンスは得意気な顔を浮かべたのでしたが、雲間から覗いては消える太陽にほほ笑みかけてるとも思われました。一方飼い主のオステンは驚嘆する人たちに応える表情を最近くもらせ勝ちです。

算数の出来る馬として評判を呼んだハンスはすでに立派な見世物でした。

しかしオステンは芸当をひけらかすつもりでこんな訓練を施したわけではなかったのです。愛馬と会話がしたかった、その為に数字や文字を根気よく教えこんだのがことの始まりでした。

ハンスが示した反応に脈を感じたオステンの高鳴る鼓動は、地面を打ちつけている前脚の蹄と見事に重なっていました。

最初は簡単な足し算引き算でしたが、今では掛け算はおろか分数だって現在の時刻だっていとも簡単に答えてしまいます。

質問が出されハンスの蹄がコツコツ叩かれるたびに人々はどよめき、その長い大人しそうな顔はもちろん、健気に上下する前脚に対し和やかな喝采を送りました。利口なハンスは子供たちにとっては英雄であり、こころある大人たちから見れば敬虔なまなざしを投げかけるに値するものでした。それは奇跡と呼んでも差しつかえない素晴らしい動作だったのです。

噂を聞きつけた様々な分野の学者らが集結したのも当然でした。彼らは調査委員会を設置し科学的な立場からハンスを研究しました。何せオステン以外の者からの出題にもきちんと解答してしまうのですから、単に情愛に支えられた曲芸や、まして手品みたいなトリックがあるとの見解には到底おさまりそうにありませんでした。

そこで色々な実験が開始されたのですが、わずか数週間でハンスの知性は無惨にも否定されてしまったのです。

説明はいたって簡単なものでした。馬のハンスは人語を聞き取って数式を解いたり、問題をいい当てていたのではなく、その健気な蹄を打ち鳴らすタイミングを心得ていただけなのです。いやいや、それだって大したものではないか、と温情をいただきたいところなのですけれど、質問者自身が答えを知らない場合、ハンスは一問たりとも正解を披露出来なかったのでした。それは敏感な観察力によって、つまり問題を投げかける人物の些細な動きや表情を、まさに嗅ぎ分けるようにして読み取り、前脚の動きを速やかに中止していたからで、答えが九としますと、八回叩いたところで次に来る解答に対する期待が発せられているのを見抜いていたのでした。

利口なハンスは自分を注視する相手をまるで鏡で照らすよう、じっと見据えていたのです。鋭い視線ではありません、反射する陽光がまばゆくとも決して苦々しく思わない心持ちと同じで、優しく目を細めながら人間たちの要望に応えていたのでした。

オステンが予てから正解するごと好物のニンジンを褒美としてあたえていたので、反射的に学習したに過ぎないなんて考えますと、科学は随分せまい了見しか持ちえません。

その後もハンスは身につけた算数をあちこちで披瀝しました。

調査委員会の証明にもかかわらず人だかりからは惜しみない拍手が絶えることなく、目礼のように解答がなされるとき、ハンスの瞳はキラキラと朝露みたいに輝くのでした。