美の特攻隊

てのひら小説

あんかけ焼きそば(パワーアップ編)

夜が更ければなにかいいことがあるのだろうか、なんて普段あたまに思い浮かんではこない考えが、薄ぼんやりしながら静まりかえった深夜の気配にとけ込んでゆく。

休日なので夕方近くまで目覚めつつもふたたび眠りおちるままでいたから、いつもに比べ遅く布団に入ったのだったが、時計の針が何故かしら殺気を秘めた危険な時刻をしめしているように感じられ、寝苦しさというより、案外サスペンス映画でもみたあとのような緊張で神経が昂っている。

呈のいい思考が次第にはっきりしてきたのは、結局ぜんぜん眠くなくて、それは当たり前だろうし、また明日も休みなので身体のメカニズムなど機械じかけに縛られることなく、あべこべに深夜を特定している時計に挑む感覚がこじんまりした自由へと羽ばたかせくれているからだろう。

意を決するなんて大仰に聞こえるかも知れないけど、休みといったって行楽や旅とも無縁、家でゴロゴロしてはわずかだけ心苦しさに逼迫されるのが段々腹立たしくもあり、しかし所詮は自分の内紛以外のなにものでもないから、小食で済ました夕飯のありきたりな現実が一気に風船みたいに、そう紙風船と呼ぶにはもっと意思をはらみ、ゴム風船というには宿り続けられない浅はかな欲を膨らませてしまったのだ。

眠気に反抗していたのは夜食の段取りにほかならない。

 

冷蔵庫、華やかな霊安室

二階の寝室へだってその電源は静かに、まるで音を微かに立てるのが義務であるように階段から伝ってくる。ならこちらも記憶の貯蔵庫を探り当てよう。いや、もう先ほどから野菜室に収まっているものは明快であったし、材料に関しては思い間違いないと確信を得ていた。問題はなにをどうするかである。

 

夜中の料理は寝静まっている家族らに迷惑を及ぼすだろう、そんな葛藤のうちに閃くのは、お茶漬けやどんべいであるのが至当なのだが、夜の思念はもっと重みを秘めており、本能にさっさと導かれ、まわりが静謐なだけに怨念めいた食欲は腹具合をうかがう責務から解き放たれ、冷蔵庫のひんやりした手触りと重量感に沈みこんでゆくしかない。

おぼろげなイメージは割と急速にまとまりを見せ、覚めた脳裡に描き出されるのは野菜と肉、それに炭水化物からなる一品に収斂された。

少しためらいはあったけど、思いは重みに促され、ほぼ明確なかたちへと進展し我ながら生唾が出てきた頃には、むくりと上半身を起こしながら、白菜、長ネギ、ショウガ、にんじん、豚の細切れが眼前に泳ぎはじめるのを今にも手にする錯覚に溺れ、だが、これは悪夢なんかじゃない、証拠にこの瞬間の為にかねてより買い置きしておいた、うずらの卵とヤングコーンの水煮が攻撃的なまでに夜気をふり払い、おそらく健在であろうキクラゲの黒い影が台所の片隅でひたすら待ちわびている様子に憂いなく重なり合う。夜食は先週がどんべいであった既成事実に猛攻する勢いで、あんかけ焼きそばと決定された。

 

階段を降りる足つきに鈍さはない、反対にやはりひとり騒々しさを招いている気兼ねで猫足になった。

段取りは自ら慮るよりか、向こうから訪れてくるように感じたので、いわば時間にとらわれず、ゆっくり調理にのぞめばいい、そう覚悟した。午前3時、素晴らしい時刻だ。

まずは確認作業のひやりとした焦りをもっともらしく装い、乾物類のしまわれている扉の奥に少量のキクラゲのすがたを見届けた後、おもむろに冷蔵庫の野菜らを手にし、まな板の脇に並べた。豚こまも忘れてはいない。

さて、換気扇ならびにフライパンの熱気が夜のしじまを破るのは一時だけだから、あわてず優雅に朗らかに、ワルツに調べに乗るごとく、下ごしらえをこなしてゆく。

手始めはキクラゲを洗い湯でもどしておこう、手狭だから食卓に移し、出来上がりの歯ごたえをほんのり夢見つつ、とっておきの水煮たちにも準備してもらい、うずらは6個かあ、でもヤングコーンは量があり過ぎる、半分は明日サラダにでも使えば、などとうれしいため息をもらして、その隠れた実力を、あっぱれな脇役ぶりに期待を寄せ、香りづけとして重要なネギとショウガのみじん切りにとりかかる。

多めに切るのはスープにも投入するわけだが、そう鶏ガラスープは本格的に取る作業が出来ないのでトップバリュの顆粒製品を用いる。

これもあらかじめ小鍋の湯に溶いておき、微量の醤油と軽くコショウ、さきのネギらで味付けしておいて、炒めた具材にまわし入れ、残りはスープとしていただく。

あんかけ、つまり半汁状の料理にスープは過剰だと陰口を叩かれようが、誰にも関知されない、なによりこの顆粒製品は使い切りサイズなので、どうしても量があり、というかけっこう塩分も効いているから、湯に溶いてみるとまわし入れだけでは余してしまう。

なら醤油を足さなければと問われそうだが、風味、色合いからして醤油を外すことは到底できない。

それどころか醤油の味わいこそが漆黒の意義をただし、儀式となるべく夜更けに過激な想いを募らせ、反面しんみりした情趣をひっそりした台所の底辺に漂わすのである。私たちは醤油の一滴に日本人たる血を想起させるのだ。

豚肉に日本酒をまぶしておく、これは加熱しても柔らかさを保とうという意地らしい行為である。ついでに電子レンジで袋が破裂する寸前まで温められた焼きそばめんにもふりかけておく、これはまじないのようなものだ。

白菜を切る。

先の青い箇所は大様に白いところは火の通りやすさと味がなじみやすいよう斜に包丁をいれ、かといって薄過ぎても困るので、これは歯ごたえを残したいがゆえの仏心に近く、慎重な作業は次の人参にも同様で、ここで不意にかすめた玉ねぎも使おうかという迷いに手元がとまり、歯ぎしりにも似た瞬時の葛藤を経て、具沢山であることの奢侈より甘みが強くはなりそうな気がし、断念した。

ガス台にはすでにスープの小鍋が湯気をたてており、隣では薄くサラダ油をひいたフライパンでめんが焼かれている。むろん味つけはされていない。あらかじめレンジで熱を加え酒をふってあるし、仕上げからしてみてもことさらほぐす必要はなく、かなり弱火の長期戦のこころ構えなのだが、何故か菜箸が勝手に火の加減をうかがってしまう。

それはさておき、換気扇をまわした限り、ひと思いに炒めに没入し、騒音を生み出しては後ろめたさに苛まれる意識さえ熱して忘我の境地に踊り出たいところであったけど、まだまだ匂い立つ戦場には至っておらず、ここは野火のような牧歌的な煙たさに包まれた雰囲気でしかなかった。

キクラゲは程よい食感に達しただろうか、豚こまの繊維にしみ入った酒のちからに願いを託し、まるで忘れさっていたかのように水溶き片栗を準備する。

一対一、基本が口をついて出るがいくらまぜておいてもすぐに沈殿してしまう。それよりこの料理のかなめはオイスターソースの塩梅ととろみ加減に尽きるので、平和のひとときながら精神統一を怠れない。段取りはとどこおりなく行われ、いよいよ決戦のときが迫ってきた。焼きそばはまさに焼かれる為に調理される。じっくりと固焼きめんの面影さえ見え隠れしながら。

せわしない菜箸の動きが来るべき光景を撹乱するよう、不本意な意思に傾き、のぼりつめつつある儀式の頂点を破滅に向かわせ、夜食そのものを根底から覆そうと企んでいる。そんな怯懦が期待の裏返しであり、健気な影絵であることは、ゴマ油のふたを開けたときに香るふうにわかった。

こんがりとまでではないけど、いい焦げ目があらわれてきて、めんがサバサバしている様子が見てとれた。

小鍋のスープを煮えたぎらせ傍らに、フライパンの位置を交代させて本戦に突入する。

弱火にてサラダ油とゴマ油を半々に注ぐのは火を止めてからもう一度ゴマ油を垂らすため。

すぐさま長ネギとショウガを入れる、まだ火を知らないみじん切りらに試練が控えているのは気の毒だけど、傾けたフライパンにじりじりあぶられる様は被虐的な法悦にはじける幾多の面にも映り、目を伏せたくなるまさにその瞬間にこそ、豚こまが憎々しく叩きつけられ、強火に点じて白菜がどしりと覆い被さるのは天命であろう。

炒めることは炒めるのだが、とろみをつけるので水分を飛ばす要領は求められず、人参、キクラゲ、うずらの卵、ヤングゴーンが次々に放り込まれ、白菜がしんなりなるのを待たずに、鶏ガラ特製スープが床下浸水のごとくに充たされ、具材たちは加熱地獄に阿鼻叫喚ならず、本然を悟ると見るはいかがなものか。

豚肉の火加減に留意し、白菜に十分な慈愛のまなざしを降り注げば、ヤングコーンのつぶつぶにもスープがしみ込んでゆくようで口中にその味わいが飛びこんでくる錯誤を覚えてしまう。

沈黙を守り通すのはキクラゲであった。もの言わぬ臓器を彷彿とさせるその姿勢は、反応をもたらさないがゆえに生半可な味覚を超越し、あらためて完成まで慎重を期さなくてはいけないと激励される。よくわかった、そんな感傷をはねのけながらも深い感動へと連なるであろう、こころ模様を彩る人参の赤みに更なる想いがしがみつく。

両手で受け取る仕草、子供のころの想い出が熱気にあぶられては眼前のうずらに焦点をあわせようとする対比の妙に胸がしめつけられ、白身をボールになぞらせた遊戯のうちに不動と歴史を思い知る。

様々な思惑を乗せ夜の時間は流れゆき、オイスターソースならびに醤油があたかも特攻零戦の第一出撃隊のごとく急降下の勢いで突入する。

本来なら失敗ないようそろりと為されるところだが、ここで思い切らずどこで思い切るというのだろう。このはかなさ、いさぎよさ、なにより段取りに支えられた矜持が大胆かつ慎重を演じるのだ。とはいえ、どろりとしてもさっとしても実際には少量である。あくまで手つき並びに精神論を述べただけ。

ふつふつと煮たってくる様子は炒めものとは別種の趣があり、湯気ののぼりも煙とは当然異なる。隣のめんは一層こうばしさを増してきた。ついに出来上がりが間近となり、が、ここでも落ち着きを失わず、能のすり足の仕草で豆板醤を取り出し、少々加え、味見をし、ついでにコショウをし、胸に十字を切る猶予を得てからおもむろに火を弱め水溶き片栗をまわし入れる。さながら錬金術師の面持ちで。

そして再度火力を戻して、うっとりするような粘り気を確認すると、さきほどの味見に則ってやや濃いめに仕上げるよう醤油がとどめを刺し、はあっと息をとめてから火を落としてゴマ油が余興のように垂らされる。

めんにはいっさい味が施されてはいない。この濃いめに感じた八宝菜もどきの肉野菜炒めはいかに。

真っ白い大皿のうえでふたつは出会う。かつてデビッド・ボウイイギー・ポップに出会ったと歌われたクラフトワークの一節のように。

えらく大げさになってしまったけど、スープは熱々だし、ショウガでからだはポカポカ、あんかけにいたっては火傷しそうなくらい。上あごの薄皮がはがれてきた。ゆっくり味わおう。

冷房つけるかつけないの時候にあって、ほどよい汗が額ににじみ出る。あんかけは失敗なくとろみ加減とうま味を夜に捧げられれたと安心する。

 

ふと目をやると、皿のむこうから灰色のハエトリグモがきょとんとした格好でこちらを見つめていた。

「あんたには熱すぎるわよ」

ふーと息をかけたら焼きそばの湯気を敏感に感じとったのだろうか、それとも邪険にしたので気を悪くしたのか、すごすご退きかけたのだったが、ハエトリグモは食卓の端っこでまたじっととどまっていた。