美の特攻隊

てのひら小説

くらがり

季節は思い出せません。しかし黴の匂いは今でもしっかり鼻に残っています。

夏の盛り、押し入れに畳まれた布団のなかへもぐりこむのは快適な遊びでないはず、とすれば小雨に煙る春さきだったのか、湿気が立ち退いてゆくのをどこか心細がっていた秋の頃なのか、冷ややかさを越え身に刺さるような感触をあたえてくれた冬場のことであったろうか、歳時記でもあるまいし、やはり記憶は曖昧です。

私の生家は今でも昔の面影をいくらか保っていますが、採光の加減はいつも一定ではなく、その日の天候に左右されています。玄関横に連なる窓のあかりは裏庭に面した小さな縁側と室内のあいだで交じりあっていたのでしょうが、日の陰りによって中部屋は障子が開けられているにもかかわらず、どんよりとした空気にひかりが澱んでおりました。

古びた箪笥は私の生まれたときから同じ位置に留まっていますし、とくに目立った調度品もなく、家のなかはいつも変わらぬ光景に張りついたままときを刻み続けていたのです。

しかし何故あんなに部屋の気配は時折異なる様相を醸していたのでしょうか。

見慣れた自分の家であってそうでないような感覚は、子供ながらも実にしんみりと迫ってくるのでした。まるで枯淡の境地を味わっているような落ち着きはどこから湧いてでたものか、わずか六畳の空間に魔法がかけられているとは思っていませんでしたけど、天井の木目や柱のくすみ、本来は床の間であったところに置かれたテレビと茶箪笥、すぐ脇の押し入れ、開閉の自由がどこかで阻まれているのだと念じてしまう襖、それに並んだ畳の縁、これらは退屈しのぎとも遊びともつかない寝転がりによってその在り方を変じていたのです。

慣れているといえば、鼻をつく様々な匂いもまた日々強弱があったように思われ、外気が侵入していたのやら、台所の総菜の香りが家中に散らばっていたのやら、これといった印象にとらわれてはおらず、ただ悪臭に堕することなくわずかな刺激をあたえてくれたものです。

押し入れを開けて黴臭さの酸っぱい感じに包まれながら、そうです、すっぽりと頭から布団のあいだに身をはさみこんでゆき、器用な手つきでもって内側から襖を閉めてしまうと、そこは真昼の闇になります。どうしてそんな戯れをしていたのか定かではありませんが、布団の肌触りは夜のそれとは違い、ぬくもり以外の何物かに出会えるような気がして、家族の目を盗んではこっそり悦に耽っておりました。

その押し入れは祖母の布団と普段は使われないものが畳まれていて、上下二段に仕切られているのです。布団のほかは収納されてませんでしたから、最も適した隠れ家と思っていたのでしょう。母からも叱責された覚えがありますけど、押し入れを有した部屋は祖母が寝起きしていた一室ですので、口うるさいのは当然年寄りなのです。

押し入れに向かって左手は仏壇でした。

私の些細な戯れはその配置によったかも知れません。何故なら、祖母からの小言は決まって、

「そんなとこに潜りこんでばかりいると仏さんの罰があたって怖い目にあうぞ」

だからだったのです。

素直に従っていればよいものを反対にその薄ら寒い言い様に何ともいえない気分を覚えてしまい、圧迫されるふうにしてじっと布団の重みを感じていますと、言葉にならない背徳に包まれているひりつきが胸を焦がしてゆくのです。

仏罰みたいな霊気を吸い込んでいるひとときは逃げ去る時間でした。

夏休みが遠く限りなく待望されるのと同様、まだまだ続くに違いない生命の延長を夢想する為に、いつかは大人へと成長する道理を実感する為に、奇妙な儀礼をひっそり行なっていたのです。

仏壇の下もちょっとした収納場所でした。

すぐさまに思い起こされるのは富山の薬売りが置いていった引き出し型の箱です。どうしてこんなところにしまわれていたのかよく分かりませんが、その奥に束ねられた相当古い手紙の類いにも、さすがにいたずらを仕掛ける気持ちは毛頭なく、滑り込もうとすれば可能な体感を浮かべてみるだけに踏みとどまっていました。

激怒まではいきませんでしたが、ほとんど呆れ顔を全面に押し出した調子でこっぴどく叱られたのは押し入れだけではもの足りなくなったときのことです。

近所に商店を営んでいる同級生の家があり、普段からそこの弟ふたりとも遊んでいました。

あの頃は日曜に友達の家へ遊びに行くのが暗黙の禁止だったと思います。平日には滅多に顔を見ることのない各人の父親がゆったりとくつろいでいたからでしょう。つまり平穏な雰囲気には子供からしてみれば逆にピリピリする緊張を内包しているのを察知してしまうのでした。のどかな時間は喧噪を望んでいなかったのです。子供は所詮さわぐのが取り柄ですから。

ところがそこの商家は日曜が休業ということで却って両親が不在勝ちなのでした。商売がら普段家に縛られているので色々と用事やらあったそうです。

外で遊んでいた同級生に誘われ、よそとは違う日曜の時間に触れたあの刹那を忘れることは出来ません。

ガラス戸一面を被った分厚いカーテンをかき分け、薄暗くなった商店の奥へと招かれますと、裏の雨戸は閉められたままほとんど日差しを寄せつけない空間が保持されているではありませんか。

しかも電器を灯すことも疎まれているのか、さながら映画館のごとくテレビの画面が煌煌と輝いている光景に動悸を覚えました。面白い遊びやもの珍しい玩具をまえにした高揚とは異質の、どちらかといえば夕暮れの小径を小走りしているような、風に吹かれて、家並みにのまれそうになる不思議な浮遊感に促され、胸の奥に照り返される自然な風物がゆっくりと、しかし小刻みに揺れる心地よさで瞬いているのです。

映写機から放たれた光源が自在な色彩を当たりまえのように含んでいることと同じく。

午後をまわった天高い太陽はここでは劇場みたいに隠されていました。いつも知っているはずの部屋の様子は一変し、散らかった状態なのにとても新鮮な感じがして仕方ありません。

陶然とした面持ちの余韻として、早速自分の家で真似てみたのか、いくらか日にちが経ってから実行したのか覚束ないのですが、昼間とにかく家人が居ないのを見計らって家中のすべての雨戸を引き始めたのでした。

真昼の闇は仏壇よりくらがりを招来させるのでしょうか。残念ながら途中で祖母に見つかってしまい、日曜映画館は頓挫しました。

漆黒にさまよう恐怖がまだ夢とまじり合っていた頃の想い出です。