美の特攻隊

てのひら小説

逆光

頭上から鳴り響く爆撃音は勇ましいワーグナーの楽曲をより一層身近なものにしつつあった。

ベルリンの総統地下壕の強固な造りはソ連軍の肉薄を見届ける必要に駆られながら、どこかほど遠い位置をしめいていた。

ヒトラーの罵声は狂乱に裏打ちされいることを誰もが認めざるを得ない中、始終冷ややかな感情を保ち続けていたゲッべルス宣伝大臣は、救援部隊を待ち望んでいる総統の焦燥に虚威を嗅ぎ取っていた。そんな虚勢に追い打ちをかけるようゲーリング元帥の反逆、指揮権委譲の身勝手な声明が、そして親衛隊全国指導者ヒムラーのアメリカとの密かな和平交渉の情報が伝えられる。ヒトラーの激怒は本物であった。

「この裏切り者めが、忠誠を誓っておきながら何たる様だ」

ゲッべルスからしてみれば自決の意をほのめかした総統にも責任はあり、ふたりの高官がとった行動は本能的ともいえる凡庸な所業でしかなかった。所詮は権力の魔に突き動かされていただけのこと、本陣が崩れ落ちようとしている今、国家主義であれ、党内再確立であれ、ただの自己保身であれ、醜悪な匂いは砲撃の硝煙にかき消されてしまい、総統の逆鱗は彼の鼻孔にまで届きはしない。

もっとも大事なのは盲目の忠誠であり、無私の自覚である。すでに多くの政府指導者や党幹部はベルリンから脱出しており、地下壕に居住していた女性秘書たち、使用人らも篭城の責務を背負わされたりしなかった。

ゲッベルスの心中に澱んでいたのは不世出の独裁者にして常に栄光をまとっていた人物そのものより、最期まで投影を成し遂げた自身への暗き信念であろう。顧みるとゲーリングヒムラーは実に煙たい存在だったし、このような形で失脚してくれるのは願ってもない慶福であった。これで一番の側近の地位が約束される。思惑とおり憔悴しきったヒトラーは官房長ボルマンを党首に、ゲッベルスを首相に任命した。

「私はいつも御側におります」

ヒトラーの自決を確認すること、そして自らも妻子も死をともにすること、そうすれば自分の名誉は永遠に存続するであろう。まさに無私の余剰効果である。これが公人としての隠れみの用いた一世一代の宣伝であった。が、私人としての影はどこに刻印されるのか。

深い森の彼方から漂い始めた曖昧な疑念はそのすがたを形成しない。すでにかき消された辛く苦い想い出はその紋様を正確に現すことが出来ないのだ。この腕章に示されたハーケンクロイツの図柄が未来永劫とどまろうとも。

深夜3時、エヴァ・ブラウン嬢と挙式をあげたヒトラーに立ち会ったゲッベルスのまなざしは現実の光景から遠ざかり、大戦突入前の甘い生活に移ろいでいた。

宣伝省としての特権は広く芸能演劇の世界を掌握し、おかげで彼の魅力うんぬんが差し引かれても近寄ってくる女性は決して少なくはなく幾多の情事が公然となった。妻マグダには間を置かずして一男五女の子供をもうけさせ、その合間にも絶えることのない活力は映画女優との数えきれぬ浮き名を流させた。

総統、あなたは私と違い本当に欲のない人だ。菜食家で煙草も酒もたしなまず、色香とは無縁であり続けた。ええ、私の情報操作とあなたの政治理念、すなわち婦人票を失うという危惧によるものだとしても、極度に偏った欲望、権力への意思のみにかじりついた姿勢は美しすぎます。しかし反動を振り返る手間をもみ消してはいけません。そうです、姪御にあたるゲリ・ラバウルへのあまりに近親的な情愛の寄せ方を。

私ごときが提言するのは甚だ畏れ多いのですけれども、籠のなかの大切な小鳥を死なせてしまった無垢な少年のような嘆きを忘れてはいないでしょう。あの事件があなたの深部に重い錨を落としているのは否定出来ません。純愛、そう呼ばれることに誤りはないでしょうし、唯一の拠り所であった事実もねじ曲げられはしません。だとしたら私が虜になってしまったチェコ人女優リダ・バーロヴァの場合はどう解釈すればよろしいのでしょうか。

妻のマグダがかねてより親密だった秘書のハンケと共謀し、離婚を前提に総統へ告発したこと自体、妻の不貞を裏付けに他なりませんでした。しかもあのチェコ女は諜報者の疑いさえあるなどと装飾を施され、総統の知るところとなりました。ただちに呼びつけられた私を待っていたのは開口一番「宣伝大臣がそのような醜聞をつくりだしてどうする気だ」でした。

返す言葉もありません。私は映画製作の一環として自らの家族をフィルムの光として焼き付け、規範的なドイツ家庭を大々的に強調さえしたのですから。宣伝は派手な方がいい、当時人気絶頂だったロンメル将軍にも我が家を訪ねてもらい、私はすべての虚構を報知せしめておりました。妻も熱烈なナチ党員です。私の仕事を誰よりも理解していたからこそ、色恋と政治の絡みつきをよく観察していたのだと思います。

国家社会主義に理想を見いだし総統にまみえて以来、私人であることを没し公人に徹して来たつもりでしたが、あのときばかりは政治的地位を投げ捨て、大臣の任を解いていただき他国に赴任させて欲しいと懇願してしまいました。かなうなら芸者とやらのいる日本に大使として行かしてもらいたい、愛するリダと一緒に。

激しい怒りを覚悟していた私に下された命令はその内心を押し殺したふうな、段階的で実験精神にあふれた内容でした。「しばらくは結婚継続するべきである。まあ様子を見たまえ、それでも駄目なら仕方あるまい」

私の使命であるプロパガンダと心理作戦が再認識されたのは言うまでもないでしょう。

あなたの冷徹さは私の及ぶところではありません。さっと本来の公人に立ち戻る構えが整った矢先には私人としての未来は過去へとまるで急流にのまれる勢いで後退してゆきました。リダは容赦なくドイツを追われてしまったのです。

虜という平和的な幻想が許されたのはまだ軍事行動が本格に始動していなかったからでしょう。マグダとの溝が深まっただけでなく、私の私人としての行いは総統の顰蹙を買い、またまわりの政治家や軍人からは大臣の席を剥奪されそうな不穏な空気が充溢しておりました。私は疎んじられ、弁舌だけでのしあがって来た居場所が、権力への憧れが、音を立てて崩壊していくのを感じました。

幸い打算的な事情も加味され妻との関係が良好になったのを機に私の快進撃が再びなされたのはご存知のはずです。戦火の最中に飛び出すことも軍事会議にも参列できない身分であるゆえに、残された道は各地の民衆に励ましという名目で歩み寄り、徹底的に可能な限りの言葉を駆使して演説を繰り広げることでした。

すでに散り去った恋の行方に悩みまどうよりも、純粋思想を深化させ、培養させ、国家に忠誠を誓うしか生きる方便は見当たりません。たとえ心のどこかが醒めていようとおかまなしで私は熱弁をふるい、聴衆を熱狂させることに夢中になったのです。すべては総統のために。

さしずめその足萎えの劣等意識を覆す有り様だと中傷されてもかまいません。小柄で痩せぎすなおおよそナチ党員にふさわしくない容姿でしたが、いざ演説台に両足を固定した瞬間から私の声は軍人よりも軍人らしい猛々しい声色で会場を駆け巡ったのでした。遺恨は転じたりはしません。ただひたすら増幅するばかりです。これが私のスローガンでありナチスの信条なのです。私のたった一度の恋は無惨にも引き裂かれましたが、悲嘆に暮れたりはせずに、憎悪という博愛の精神を流布することで忠義と理想が婚姻を遂げたのでした。

 

疲労の色を隠せないヒトラーと喜悦満面のエヴァは厳粛にして茶番の式を簡略に済ませた。ゲッベルスはすでに地下壕へ呼び寄せてあったマグダと六人の子供たちの行く末を、一枚の絵画のように思い浮かべてみるのだった。