美の特攻隊

てのひら小説

蛇女の怪

頬をなでる冷ややかな風に引き締まった美しい弦楽の奏でを感じるよう、僕にしてみれば子供らの奇妙なうわさ話は、秋の空から舞い降りてきた贈りものだったのかも知れない。

最初耳にしたときから聞き流してしまう理由をあげてみるより、風のなかにひそんでいる魔物に魅入られてしまい、というのも僕のほうからすすんで彼方からの訪れを、まるで冬至の到来のように察してしまったからであって、決して子供の時間に舞い戻ろうなどど考えていたわけでなく、まばらな粉雪にそっと目をやりながら寒天に消えてゆく想いを静かに感じとりたかったのだった。

ところが湿気を帯びた夏の怪談と違い、この時期の乾いた空気はさながら流行の感冒みたいに伝播してしまう効力があり、発熱し寝込んでいるときに胸を満たすだろう、群衆のなかの孤独をかみしめてる悠長な気分は許されなかった。

 

出来事はL博士が発端にせよ、結局は僕の白日夢が踊り出てしまったと正直に述べておいたほうがよい。

 

「知っているか、もうあんたのまわりでも、いいや大人でもさ、随分と目撃者が出ているみたいだな」

さてL博士は界隈で変人扱いされている老年男だが、僕とはどことなく気が合うところがあって時折、新たな研究成果とやらの説明を誰よりも早く聞かされていた。

年金暮らしの独り身を憐れんでいるからとか、一風変わった性格を物見しつつ自分との距離を定めてみることで、とるに足らない同情を加味しているとかの偽善とは関係ない、単純に言えば僕はL博士の浮き世離れした人柄を好んでいただけに過ぎず、つまりこのあとに続く会話の流れに支障をきたさない為にも、また首を傾げてしまうだろう内容に対し、前もって現実味を少しだけ追加しておく。

「ええ博士、都市伝説の一種だと言いたいところですが、生憎ここは田舎町ですからね、言説を解明するよりも実際に見たと話している方面、とにかく僕らも蛇女に出会わないといけません」

「あんたもそう思うかい、わしもそうでな、いてもたってもいれなくて、ほとんど徹夜でこれまで奴が出没したあたりを探っていたんだ」

「そうですか、僕も同じです。さすがに夜通しではないですけど。で、何か手がかりは」

「今日来てもらったのはずばり本題にせまることなんだ」

「では、正体が分かってきたのですか」

「ああ、この眼で見てしまったよ」

「ええっ、蛇女をですか。ちょっと待ってください。博士と僕がこの間からしきりに話題にしていたのは、あの、、、」

続く言葉を見失ってしまって当然だといった表情を浮かべた博士は、もの忘れが頻繁になった老人のそれではなく、反対に一計を案じている明晰な眉目が際立って、煙に巻かれた僕をいたわるような雰囲気をかもしだしている。これまで博士の顔つきがこんなに理知的に締ったのは始めてだった。

「風説を基準として押し進めていく段階は終わったということだ。わしが惚けたなり幻覚に惑わされたなり思うのだったら、これ以上あんたの手を借りるつもりはないよ」

「いえ、そんな、僕は信じます。実際ごらんになったわけでしょう、次は僕が見るべきですし、是非とも正体解明の協力をさせてください」

疑心が生じてなかったかと問われれば、心苦しいところもあるけど、そんな息のつまる加減さえごちそうが喉にむせるのと同じで、先行していたのは紛れもない夢見る好奇心であった。

博士はすでに断定を下していたのだ。そう、だから口調には威厳が備わっており、目もとには妖し気なひかりを通り越して崇高な明るさが棲みついている。僕は自ら呪縛を願ってやまない時間のなかにいた。そしてその手つきは何やら思いもよらない具合で、荒々しくもなく、柔らかでもなく、弱々しくもなく、ちょうど羽を休めた鳩を両手で被うような生々しいけど妙に無機質な感覚だった。

「蛇女はこれまで攻撃性をしめしたことがない、目撃者はただただその怪奇な姿におののいているだけだ」

L博士の解析結果はこうである。突然変異の生命体もしくは太古より生息していた未確認の生物、そして可能性としては低いがある種の呪いによって肉体変貌してしまった被験者。科学とオカルトを含め、これだけでもう言い尽くされていると思った。

そして何と僕に要請されたのはその低い箇所、博士の理屈によれば、生き物である以上は捕獲しなくてはならない、狩りをするみたいな手荒な方法では危険がともなうであろう、だから仮定として呪力であるとするなら、まわりに危害が及ばないようこちらもその手法を試すのが賢明だというわけだった。

何だか我々の怯懦が一番安全な道をそれとなく選択したのでは、そうした内省もまた余地をあたえられてないのか、博士が言うには、

「あんたところには確かワニの剥製があったはずだね」

などと、薮から棒の問いを投げつけ決定権が一層強まる思いのうちに、いかにも古めかしい学説が展開された。

これまでの目撃情報はすべて夜間である為、一概に蛇女といってもそれぞれ言い分が異なり、ある者は眼光鋭く舌なめずりしていただの、顔中がまさにうろこで形成され毒々しかっただの、かと思えば糸を引いたような眼は涼しげだけれども全体的に妖しさがゆき届いており背筋が凍てつく風体だったの、誰かとっさに写メールでも撮ってくれれば明白なのだったが、暗がりからしのびよる怪異に対峙しどうして平静でいられよう、肝心の博士当人ですら、少なくともギリシャ神話に登場するゴーゴンみたいに頭髪が蛇ではなかったくらいの印象しか持ち帰れておらず、いかに瞬時の遭遇がとらえ難いものか想像できるだろう。

そうした実情から統計とは至らないけれど、ある程度の風貌に束ねてみたところ、体格ならび四肢はひとがた、顔面のみ爬虫類のそれであり攻撃性は見られないが、多数の目撃談は今では相当な尾ひれがつき幼子まで震撼させている始末、普段から色眼鏡で見られている博士からすれば、ここはひとつ名誉回復のよい機会だと一役買って出たわけである。

もっとも助力を担う僕のほうがよほど苦労があり、瞠目に値する役目を果たしたつもりではいるが。

「よく憶えていますね、ええ、ワニの剥製なら持ってますよ。でもありゃ子ワニです、いいんですかあれで」

L博士の要望はその剥製を使って蛇女を退治するという、何とも原始的で非科学的な手段であった。

詳細は古代エジプトまでさかのぼり、霊魂不滅説にはじまって壁画に描かれたワニの呪術性から考古学まで突き詰めていくので、講義を拝聴しているだけで日数が過ぎてしまい、行動に移すことが出来なくなっては困るから、要約もほどほどに役割だけをうかがってみると、

「文献によれば剥製にしたワニを涙で浸し復活させることで、蛇の魔性を追い払うとある」

などと真剣なまなざしで答えるので、僕は頭のネジが一気に外れていくのを禁じ得なかった。

「当時は位の高い者らが数人で涙をしぼったと書かれているが、誰がほかに心当たりあればいいけれど、なさそうだからあんた一人で挑戦してみてくれないか。いいや、懐疑を抱く者、効能あらずと記されているからな、どうやらあんたしかいないんだ」

「僕だけですか、博士も一緒にやって下さいよ」

「わしはその間に仕上げをしなくてはならない。ワニはあくまで蛇女を追尾するだけで対等に戦うのは無理なようだ。つまりわしが蛇封じの特効薬を完成させるまでの撹乱だな」

「時間稼ぎでしょ」

僕は少々語気を強めたので博士は申し訳なさそうな目つきをしつつ、大蜘蛛作戦っていうのも思案したんだが、相当巨大な蜘蛛を育てないとすぐに食われてしまいだろうし、あんただって部屋からはみ出してしまうような蜘蛛は扱いにくいだろう、なんて言うものだから呆れながらもワニへ涙を注ぐことにした。

昔は水槽に入れた剥製が埋まるほどの容量が必要とされたみたいだったが、博士いわく、

「時代が違う、蛇女もさぞかし息苦しいだろうよ、まあ三日ほど泣き続けてくれればいいよ、問題は量より質かも知れない」

と独断に堕ちた。だが、こうなった限り古代エジプトやらの奇跡の片鱗でもいいからこの手にしてみたい。一役買うまえに遥かいにしえの文明に想いを馳せてしまい、僕はもう涙目になっていた。

「これを持っていきなさい。保湿効果のある特殊な素材で作っておいた。涙が枯れたら速やかに蓋を閉めるんだよ。おっと、鼻水とかよだれは禁物、純粋に涙だけを貯めてくれ」

家に帰り早速ワニを水槽に安置し、そのひからびた皮の連続体を濡らし始めた。面白いもので行為自体からくる感動とも陶酔ともいえない不思議なちからが涙腺をゆるめ、しまいにはポタポタと大粒になって落ち剥製のささくれから切れ目に浸透していった。

透明の水槽をのぞき込んで集中していると、ワニのすがたは横たえられた木の枝にも思え、僕の涙はさながら材木置き場に降り出した通り雨にも似て、土の匂いとはまた違ったものをわずかに香らせていく。

緑を失った小枝が耳もとでざわめくのも侘しくて、嗅覚に酔っているばかりはいかず、この現実的な剥製のすがたを見つめれば、どこの水辺に棲みいたのだろうなどと、無惨にもはらわたをかき出された宿命が嘆かわしく、役者の気分で落涙していた情況が次第に、そう毛穴が開くよう生身からにじみ始め、くり抜かれた目玉の替わりにはめ込まれたビー玉みたいな義眼と視線が結ばれた頃には、僕はおいおいと声を上げて泣きはらしていた。

縦に線を引いてみる。それから分度器を使った感覚で横線を加える。たぶん縦線には共感できる、だけど横線は限りがないようで、ありったけの感傷を呼び寄せてもその端々はすぐにぼやけてしまい、甘美な涙の行方をかえって曖昧にさせている気がしてくる。

長く続く列車の旅には情感も一緒に乗り込んでくれるのに、どうしてここでは、この水槽にだって縦、横、高さもあるのにそれぞれの線分に即さないのだろうか。列車は走るけど水槽は動かない、しかし限りがないのは剥製の居場所の方だ、なのに横線に沿って涙は流れない。

思考が役目の邪魔をしかけているのを薄々感じると、蛇女が哀れに思えて来た。きっと僕の憐憫など欲していないだろうが、嘘泣きに近い儀式だって形通りに決まれば少しは何かが伝わるかも知れない。最後に自分自身の愚かさに泣かされ、夜を迎えるまえに眼球は渇ききってしまった。

水槽の底はおろかワニの背中を湿らすにも到底足りてない。そこからが大変だった。悲哀より馬鹿笑いの方が大量に落涙するのを知り、翌日には自分の要領の悪さにつくづく消沈しながら、包丁をトントンいわせてタマネギのみじん切りを眼のまわりに塗っていたのだ。

目薬だと不純物も混じってしまうけどタマネギの成分なら許してもらえるだろう。その甲斐あってワニの脇腹から背中にあたりになんとか水分が補給された。

そして三日目、風邪だってそれくらい寝込んだら大概は回復するものだ、剥製のワニにも魔法は通じるだろうか。もっとも途中から姑息な手段に転じたから魔法なんて高慢このうえないが。

でもこれだけはわかってもらえるとありがたい、タマネギのしみ方は尋常ではなかったし、三日間の儀式は一応無駄に終わらなかった。というのもワニが動きだしからだ。そっと持ち上げて床に放してやると、スタスタ歩きだし出口を探そうとしていたので、ドアを開けて「さあ、行ってこいよ」とほとんど熱病に冒されたときに発するような頼りない声をかけた。

ワニは少しだけ斜めに僕のほうに向かって体を曲げてから、どうしたことか玄関先にあった赤いスリッパを前足で履いて出ていった。

その先はL博士からの話しなので細々したことは説明できないけど、どうやらワニは蛇女を嗅ぎつけ立派に追跡を果たしたまではいいが、博士もちょうどその現場に立ち会い様子をうかがっていたところ、蛇女は物腰も優しげにしゃがみこんでワニの頭を撫でてやったそうだ。

するとワニの奴、まるで猫みたいにころりと腹をだし四つ足もばたついかせていたというから、博士もさぞかし濃厚なめまいを覚えたことだろう。

ひとの噂もなんとやらでそれからしばらくすると蛇女の影を口にするものもいなくなり、L博士は奇跡に出会ったと感激のあまりすっかり足腰のちからが抜けてしまい、寝込んでしまった。

僕にとっても剥製が部屋から消えてなくなったのは事実だったから、まだ驚きは新鮮さを保ったままでいれる。

この秋空がやがて冬空へ移り雪を呼ぶまでの間、保冷庫の役目を果たしてくれればいい。