美の特攻隊

てのひら小説

特急列車

長旅を期待しながら列車に乗りこむ風情は眺めるがわとて、ちょうど色づき始めた草花を愛でるふうに殊勝な心持ちへ傾くのだから、どうであろう、この身がすでに車窓のなかに座しているのであれば、それは景色が後方に流れゆくままにまかせた風の抵抗を関知しない、あの気取りを忘れた街ゆく視線をより優美に引き立たせてくれるに違いない。

感じうるものはレールの惜しげもなくはじき出す暗算が、耳にしっかり届けられているという単調な、しかし、確実に空間と時間を蕩尽する意気込みが典雅に伝わるからであり、ことさら秘められた野心など持ち合わせる必要はなかった。

駅舎より旅立ったはずなのに、すでに二つめの陸橋を抜け平地へと勢いよく走りだす鳥瞰を得ているのが不思議といえば不思議だったが、旅情に納められた揺らぎはまるで水枕のような感触で後頭部や額を柔らかにし、湛えられた水の透ける様子は車窓のガラスに挑んだのか、実際の風景をこの目に映し出すよりも空へと舞い上がらせたのだから、これほど心地よい出発はないと思う。

新幹線に乗り換えた覚えはないのだけれども、いつしか私は九州まで運ばれており、それは冬空に願いをこめた想いがかなったのであろうか。とにかく見知らぬ土地が物珍しくて仕方ない、意想に然うよりも南国の情趣を抱えたく、まさに今の空気を呼吸するのだった。

生来の方向音痴をかみしめるごとく、ふらりと訪れたのは、こう言うといかにもひと事みたいだが、確かに旅なんて実感をもたらしてくれるよりか、絵空事に向き合っているのを緩急自在に試しているだけだし、まして私の意識は車窓の流れにまるで即していたかったので、今回は見物客なかの見物客を装い、ここが九州の何県であるのやら問うことなく、間口がやたらに広々とした湯治場らしき、かなりの年月を経た建物の玄関先をぶらついていた。

「ねえ、しばらく働かせてよ。経験ないけど、わたしこういうとこ好きなんだわ」

「今思いついたのですか」

私はどうやらこの湯治場の従業員に間違われている、が、臆することなくいやに甘ったるい声を出す若い女性にそう問うのだった。

「そうよ、気に入ったの」

若い女の顔が日常領域より迫ってくる。私はにせ従業員の仮面を隠れみのにし、ムズムズする緊迫をやんわり抑えつつ、ありもしない矜持を保つのが優れた才覚であるかのように、けれどもやや気恥ずかしい口ぶりは隠しきれず、

「わかりました、ではあちらの方で待っていて下さい」

と、沈着な面持ちの裏に留め置かれた情感を覚られることなくそう答えた。

いや、覚られようが、されまいがこれは矜持の問題なので、湯上がりにしたたり落ちる汗を羞恥へ置き換えるほど気弱でなく、また複雑でもなかった。ただ、女が素直にうなずいて待ち合いの長椅子へ足を向けたとき、急な湯冷めに軽く身震いしてしまった。そう、私は湯上がりだったし、まだ宿泊の手続きも済ませてなかったので、帳場に人影がないの訝しながら、がらんとした広間を見まわし、旅のほどよい疲れとめまいを混同させ、ものの見事にこの空間に張りついている大きな振り子時計へ行きついた。

「3時20分」

私たちはすでに経験済みである。極めて似た状況とまったく同じ気持ちが絡み合いながら屹然と、あたかも鏡のなかの分身から指令される場面を、、、

「さあ、ここがあんたの部屋やで」

ふたたび勘違い、薄茶のえび色がかった割烹着にひと懐こそうな関西弁、私と同年代に見える。

ともあれ言葉のアクセントがもたらす効果は侮れず、勘違いをただす気力がなかば欠けていたのは事実で、先ほどの既視感はしりぞき、妙な気安さと、それは例えば、子供のころ山のふもとでドングリを拾い集めたときに覚えた熱中と、方や無性に殺風景な心持ちが同居しながら寒風に紛れ込んだ思い出であり、その手のあかぎれを見やる乾いて風化している心境に包まれていた。つまりほぼ遊戯に乗っかっている意識からはみ出すことがなかったのだ。

「ほかの先輩らはあとから来るさかい、あんじょう挨拶しときなはれ」

私は若い女性を面接したつもりであったけれど、なりすました仇がこの逆転劇を生んでしまったのか、見習いどころか住み込みの従業員に移り変わっている。そして部屋の様子をつぶさに見ているうち次第に、不穏な雲行きを知るはめにおちいり、それまでの見物客たる安楽さから隔たりを感じないわけにはならなくなってしまった。

廊下からの出入りはよしとして、開けっ放しの障子口が横一列、左右にそれぞれ三部屋はうかがえる安易な造作に閉口してしまい、いくら手違いとはいえ、借りにここで寝起きする身をさっと思い浮かべただけで、明らかに気が滅入ってきた。大部屋に雑魚寝する様相と大差なく、きっとプライバシーもないであろう。

一応幅狭いがベッドはあり、毛布も布団も用意されている。けれども部屋はいたって手狭く、物置き場とばかりに壊れたと思える机型のミシンや、薄汚れた食器類、なにに使われるのか判明しない長い木の棒などが、意味など無用といった有り様で放置されていた。

極めつけは右となりの障子から便器が顔を出しており、これには瞬時にして不快な表情を示さなければならない。ところが左右ではなく、もう一方、廊下に向き合った外窓を開けてみると、河川に似た流れがこちらに通じていて、しかもほのかに湯気を立てている。

「ああ、これは温泉のあまり湯でんな、と言うても汚水ばかりとはちゃいます。こんこんと湧いて出た自然の流れですがな」

この横一列の部屋部屋のしたが川筋なのか、男の話すよう冷気に水面を吹かれ湯気が消え去ると、底の細やかな砂地が透けて見え、それほど深さもなく、思わず「ここから飛び込んだら気分いいでしょうね」と言いかけたのだが口をつぐんでしまった。

もう絵空事ではなくなっていたからである。旅の情趣がこんな形で哀感に転じてしまう奇縁に胸がざわめきだし、両の川岸に少しだけ目線を送り、透明な流れをじっと眺め続けていた。

もう家には帰れないのか、これから何年ぐらい住み込むのだろう、、、あてどもない台詞にあえて抑揚をあたえるふうな技巧を用いた意識は拭いきれないまま、しかし吐いた台詞に痛切な思いが宿るのは否定できない。私は湯治場へやって来たのだ。

「早速やけどな、夕飯の支度や、自炊のお客さんもおりなさるし、わしらが調理せんならんこともある」

そう言うと男はベッドの脇に大きな白い発泡スチロールをどしりと置いた。ふたを開けた途端、私はすぐさま声をあげてしまった。

「イルカじゃありませんか」

「はいな、あんたさばけるか、今日のメイン料理や」

「いいえ、とても、、、」

もうかまわない、私にだって自由は残されている。宿った意識から逃れよう、私は働きに来たのではない、旅に出ただけなのだ。怒りでも悲しみでもなかった、むしろ関西弁の男に真実を告げるのが気の毒にさえ思えていたのだから、激しく重い感情なんて抱えてはいない。

だが事情は一変した。男がイルカのあたまをなでたら信じられないけれど、その色は赤茶けたふうに退色し、あまつさえアザラシを想起させる犬に変貌してしまったのだ。丸い目を見開き、両手を交互に舌でペロペロなめだした。私は恐る恐るその未知の動物に手をやったところ、わざとらしくなめていた舌でペロリとやられてしまい、背筋に電流が走り、凝り固まったまま、ひとことも発することが不可能になった。

イルカ犬は、そう私は勝手に名づけたのだが、じっと私の瞳をのぞきこみ、抱きつこうとしたけど、不可避なはずの身はたやすく一歩うしろに引かせられた。

このまま、どんどん後退して行けばいい、廊下に戻り、だだっ広い玄関からも出て、特急列車に乗り込もう、そしてもとの町に帰るのだ。

そんな意識とは無関係にイルカ犬は私と目を合わせたまま、静かに微笑んでいるのだった。