美の特攻隊

てのひら小説

岬にて

それはまだ沈まぬ太陽を知っている朱に染まる夕暮れに始まった。

潮風にさらわれる娘の髪は空いっぱいにあふれる光を浴びて琥珀色にかがやいている。

茫洋とした夕空に寡黙な祈りを捧げた草原は、その草いきれのなかに安息を見いだしているのか、やや湿った空気に包まれながら、透き通った娘の微笑を絶やそうとはしない。

ところどころに生い茂った灌木の加減により広々とした眺めである岬は、かえって開放感を知らしめてくれる。岬の下はかなりの深みを持っているのだが、それほど距離をへてないここからの眺望からもいまだ険阻な荒磯に出会うことはなく、遠い潮騒の音さえ届いてこなかった。

聞こえてくるのは反照を受け緑が黄金色にそよぐ衣擦れのような幽かな調べだけである。

まぼろしが映しだされているのではない、夢があまりの絶景を生みだしてしまって境界を設ける必要がなかったにすぎない。

スクリーンの彼方にまで焼きついている西日を疑うすべなど微塵も持ちあわせておらず、ひたすら情景に魅入られた境地はまさに夢ごごち、岬から俯瞰する想いも遥か未来に馳せるせわしさへと埋没している。

だから、娘が見知らぬ青年に向き合っている光景を遠目にしたときも、海鳴りを呼びよせることなく、ただ眼を細めるだけであった。

 

記憶喪失者が意識を取り戻したのは、胸のなかで小人たちがいっせいにざわめきはじめ、断崖にそって傾斜した草原を駆け出したのと同時である。いや、実際には駆け出したのではなかったが、細めた眼が大きく開かれたと感じられて、娘の外道をはたと呼び覚まさせた。

「もうこれで五人目じゃないか、、、」

娘は殺人鬼だった。今まで男性ばかり五人も刺殺してきた。

現に対峙した若い男の脇腹には鋭い刃物が突き刺さっていて、この急転劇を理解する間もないまま草原にくずれようとしている。

彼は何を見届けたのだろう、刃物のひかりが瞳の奥にまで達したのか、木の葉が最期にくすぶるような鉛色となった眼には、自ら滴らせている鮮血さえ識別できまい。

男が絶命するのを確認することなく、娘はこちらを遠いまなざしで見つめ返した。

肩までかかった栗色の髪が潮風の向きなのか、殺意の余韻なのか、不敵な乱れかたをしている。

落雷と突風にでもあおられたようなあらくれをこちらに告げよう、そう望んでいるでないかと思えた。すこしは歩を進めたのかも知れない。なぜなら、傾斜にそって次第にきらきらと光る星屑が海面から浮上する光景にはじめてまみえたからである。

夕照のきらめきは娘が犯した殺生と一切関知なしだと言いた気なほど、無邪気にまばたいていた。

裁断をくだすにためらいはなかった。

 

逃亡を阻止し首尾よく岬から一段降りたところにある見晴らし台へと娘を連れてきた。

ここからの展望はいわゆる絶壁で臨まれる岩場で形成されている。右上に広がっていた緑が嘘のように消え失せ、ごつごつとした感触を全身にあたえていて、その身の危険は真下へと切立っためくらむ恐怖に収斂されていた。

鉄杭が打たれ頑丈なロープが三本、大人の胸元あたりまで張られ不慮の事故を未然に防ごうと努めている。

娘が何気に一番上のロープへ手をかけたのを見計らって、右腕を太ももつけねの内にまわし、あまった腕で安全が保られていた手をはらいのけ一気に押し出し奈落へと突き落とそうと、最大限の集中力を発揮した。

するとその両足は思いのほか軽やかに浮き上がり、くの字を描く格好で向こう側へと転落しかけた。

と云うのは反転する勢いのなか咄嗟にからだをひねり、転落をまぬがれ二本目のロープをしっかと両手に握りしめ、宙にぶらさがる軽業師の様相で上目つかいをしているのだ。その瞳に汚れを探しだすことは無理だった。娘は極限の状態におかれながら微笑を絶やしていない。

「おとうさん、わたしが怖くなったのでしょう。でも、わたしは殺されない」

そのあとの言葉を聞き取るのは不可能であった。

 

いつの間に現れたと云うのか。古代海洋時代を想起させる木造船が一艘、ちょうど娘が落下するであろうあたりに向かって漕がれてくる。娘は自身に満ちていた。

「これくらいの断崖なんか飛び降りて泳げるわ」そういいた気な面持ちを誇示している。

視線は一途だった。

憐れみがはねかえそうなくらい優しい眼でじっとこちらを見つめている。真下で何が起ころうとしているのか知る余地はない。

木造船の帆柱は十字架を示していた。白帆は見当たらない。

かわりに十字架の下方から、まるでクワガタ虫みたいな二本のノコギリ状をした鋭い刃が鈍い銀色を反射させ、ゆっくりと水平に開閉しながらせまりつつあった。そして右舷左舷からも半円をした大型回転カッターが飛び出し、すすんで両手を放し落下してゆく娘の位置に停泊した。

静かなはずだ。夕陽の海は凪いでいた。