美の特攻隊

てのひら小説

やきめし

草木も眠る丑三つ時、窓の外は冷え冷えしているに違いない。

成瀬巳喜男監督の「めし」を観て、ほっとため息、もう一本鑑賞しようかなんて考えがうそ臭くよぎり、さっきから小腹が空いている実感が大きなうねりとなって押し寄せてきた。

明日は休日、しかし何処へ行くというあてもなく、いつもの寝たきりを思い浮かべては、馬鹿みたいにうれしさを我慢している自分が少しだけ哀れになり、その感傷にひたる余地が歯ぎしりを呼べば、放っておいても胃の訴状を聞かざるを得ない。

所在なくパラパラと雑誌をめくると、家庭で作る本格中華なんてページが、待っていましたなんて言わんばかりの華やかさで目に飛び込んでくる。

八宝菜に青椒肉絲、回鍋肉に天津飯、ざっと眺めるのは観光気分だと半ばすねた意識をかいくぐり、焼飯の欄に視線が定められた。

運命の出会いかも知れない、そう大仰に声を出したいところをこらえるまでもなく、乱れ、枯れた意識にうるおいが呼び戻され、「パラパラはもうわかったから」と、いら立ちにも似た衝動が脳内を一周し、燦然たる意志がわき起こる。

以前に試した調理方に誤りはなかろう、驕慢なる発意は実行命令を即座に受け入れるのだった。一応、レシピを読み、あたかも教典に触れていたような厳かな手つきで雑誌を閉じる。が、これは尊崇とは反対の独我論に導かれた気位であり、新たなる挑戦でもあった。

 

冷蔵庫、華やかな霊安室。これはいつも呪文である。唱えることで精神を集中するのだ。

実のところ夕方のうちから材料の確認は出来ており、家族らが寝静まった時刻への引け目から、夜食の段取りがすでに案じられていたことを胸に言い聞かす。念いは一筋であった。背筋をただし台所に向かい三方の礼を行う。

スリッパの音に神妙な気配を感じ取り、流しにて念入りに手を洗い、寒いけれど、換気扇の騒音と温熱に配慮してから、台所の小窓を解放する。これは冷気より換気扇に熱がさらわれてしまう懸念であり、また額からにじみだすであろう汗をなだめる為でもある。

急いてはいけない、何故なら、焼飯作りにおける瞬発力を温存しなくてはならないからで、それは攻撃的なまでの調理の技術に向き合う、一途な発露に他ならない。

おもむろに冷蔵庫の扉を開ける。

まず野菜室より、長ネギ、ショウガを、冷凍庫からあらかじめ小分けしておいた鶏皮一枚を取り出す。そして瞑目し、最後の深呼吸とともにベーコンと卵二個をまな板の脇に静かに置く。

食材はこれだけ、あとは各調味料のふたを開けガス台の右手に整然と並べれば、ほぼ準備は出来たといえよう。

サラダ油にごま油、塩、胡椒、醤油、日本酒、そして富士鶏がらスープの素、これは塩分ならびに味の素の役割を担ってもらい、また鶏皮のうまみを補佐する意味でスープにも投入される。

フライパン、包丁、金属製のヘラ、オタマ、菜箸、レンゲ、深皿までにいたらない白い器、これで役者は勢揃いした。

 

小鍋に水を張りスープ作りからまず調理は始まった。

凍ったままの鶏皮を鍋底に沈め、煮立つ間に野菜切りを行う。割と厚めのショウガのスライスを二枚、そして長ネギの白い部分を三本人差し指ほどの長さに切り落とし、鶏皮のうえに被せる。これら薬味はあくまで脱臭に専念してもらう為の犠牲であり、決して食されることはないが故、その尊い精神に感謝の念を奉じなくてはいけない。

小鍋が沸き立つ間に具材の準備にとりかかる。卵を小鉢に割り入れる、ひとつ、そしてもうひとつは黄身のみ、憐れみと悔恨に苛まれながらも卵白の加減はここで決まってしまうので、こころを鬼にする。すべては黄金色に包まれた仕上がりと、絶対の感触を得んがために。菜箸で手早く撹拌し出番を待ってもらう。

かたまりのベーコンはサイコロをひとまわり小さくしたくらいに、そして適度な量を、これには理由がある。

以前、焼豚を用いた際、ついつい貪欲さにかまけてしてしまい、多く入れればコクが増すと期待した結果、その旨味が勝りすぎ、甘さも過剰になってしまったのだ。強欲はあだになる、禁欲精神こそ、実は今夜の挑戦そのものであろう。

白ネギを細かく刻む、スープ用には薄くスライス、青い部分も同様に。

ガス台に置かれたフライパンを静かに見つめる。嵐のまえの静けさといった様相か、段取りに手落ちがないか再度、目配りすることも忘れてならない。忘れていいのはスープが煮え立つまでの時間であった。

戦陣における緊張と弛緩、もう深呼吸は必要なかった。浅いまなざしのような覚悟が望ましい。夜食への渇望をたおやかに見守っているのだと独りささやく。

さて流れゆく夜のしじまを破るときがやってきた。

小鍋のなかに油分が浮き出し、芳醇な匂いが漂いだした。日本酒を少量たらしたのち火力を弱め、アクを丁寧にさらい、富士鶏がらスープの素、胡椒、醤油を加える。あくまで控えめでいい、調整は後でもかまわない、ただし煮過ぎは禁物だ、ほどなくして臭みが発生するまえに鶏皮を取り出す。

まな板のうえに放置し、まだ熱をもってはいるが、素早く細切れにする。少々余分な気がしてベーコン同様、中庸の精神を遵守することにした。油分にもほどよさがあるからだ。ベタベタにはいつも閉口する。

白飯は茶碗ごと電子レンジであたため、小鍋には弱火を保たせ、フライパンに点火する。空だきで怪しげな煙が舞うまでじっと構える。

家人らの眠りの境地からさまよい出し、悪夢と平行しながら、現実に白濁する、やがては決別しようまぼろしの霧、、、

まさにここが調理の要だ。手際、直感、意志、欲望、そして見失うことのない冷静さ。

灼熱地獄と化したフライパンを前にし、サラダ油、ゴマ油半々を普段の炒め物よりやや少なめにひき、左手に溶き卵、右手に白飯を、、、そう勝敗の分かれ目に挑む。

先に卵を流しこめば、急激な加熱でよりあっと言う間に卵焼きになる運命に反逆するかのごとく、飯をかぶせ、ヘラで一度強く押しつぶしてから、ホットケーキの要領でひっくり返し、あとはひたすら両者にを押しては突き、さながら特攻の勢いで色合い融合とほぐれを祈願するのである。

フライパン返しはまだ用いない、ただただ次第に粒だってくる情況に徹していればよい。

汗がふつふつとにじむ。まずは成功と見た。いい眺めが展開されてきた。ここでヘラに魂を吹き込みながらフライパンを煽っては全体の、いやすべての食に対する敬意をはらい、更にほぐれるまで執拗に両手を働かせれば、ほぼ冷凍ピラフ状にまで到達するというもの。これがいわゆるパラパラ焼飯と呼ばれるが、それだけでは味気ない、ふくよかさとしっとりした感触を求めてやまないのだ。

鶏皮の活用はここにこそあった。すかさず投入、むろん白ネギもベーコンもだ、見よ、この宙を舞うような具材の歓びを、そして黄金色に燃える飯粒を、、、

凱歌をあげるにはまだ早い。緊張と熱気による汗を意識しつつ、手を休めることなく、完成を夢みる。

さあ味付けだ、富士鶏がらスープの素は手軽なのだが、塩分もかなり効いており、入れ過ぎると取り返しのつかない惨状を呈するがゆえ、こころなしか表面に散らす程度にしておく。ベーコンからも塩気は出ているはずだ。

胡椒は適量でいいだろう、ここで再び勢いよく全体をかき混ぜる。冷凍ピラフの素っ気なさはすでに失せているけど、決してそれぞれが固まりあうことはない。

味見をしてみる。若干薄味だ、そこでまじない程度に塩をふり、いよいよ裏技を披露する瞬間が到来したことを肝に命じる。

つまりフライパンの真ん中に空隙をつくり、そこへスープをオタマ半分ほど注ぎこむのである。なんという無謀で破滅的な行為と訝しげるであろうが、これがしっとり感を生み出す秘蔵の技なのだ。

艶やかでありながら、小砂利をも想起させるハラハラ滑り落ちる感触を勝ち取る為に。

そして沸き立つスープを見届けてから、休止を得ずヘラとフライパンを巧みに操り、混ぜ合わせれば、ああ、、、まるで雌猫のしなやかな仕草を想わせる、やんわりとした肉感らしきものがなまめかしい湯気を上らせているではないか。

栄光を目前にし、なお火照りきった頬をなでる小窓からの冷気に沈着を知りつつ、抑えようのない陶酔に溺れかける己を自覚する。

夜の支配者よ、汝に我が情念を捧げよう、、、漆黒の芳香を。

鍋肌へと微量の醤油を差す。じゅっという音が心臓に伝わり、鼻孔がくすぐられる。すべては終わった。

 

 

こちらは姉妹作です。未読の方はどうぞ。

あんかけ焼きそば(パワーアップ編)

http://jammioe.hatenablog.com/entry/2013/10/05/031506