美の特攻隊

てのひら小説

勿忘草

空気抵抗を反対にもてあそびながら時間の流れをそこに悠然とあらわしている光景は、微小な羽毛たちが神妙としてひかりの祝福を甘受している、あのまどろみの裡に見出す判然としない不安感を憶い出させる。

あたかも永劫に浮遊し続けるちいさな歓びが、無限の空間から取り残される恐怖をひた隠しているように。
美代の脳裏へと同じく、朝もやのように廻ってきたのはやはり微細でとりとめもなく緩やかな想い出であった。

散漫で悠長な情景がこうして想起されるのも、ひかり輝くひとときの戯れであれば、それはひとゆめの儚さにも通じる開放的な調べと云えよう。

「どうですか今日は。外は風が冷たいですが、こうして窓から眺めると暖かな感じがしますね」
美代に割り当てられたこじんまりとした個室には確かに暖かな日差しがとりこまれ、白壁を背にして佇んでいる自分よりもひとまわりほど年の差がありそうな看護師が見せる遠慮勝ちの微笑みは、窓の外の寒風にたったいま顔をさらして来たようで、白衣に包まれた姿もまた冷たさをより引き立たせていた。
「この看護師さんの笑顔をもう何度目にしたのだろうか」
まばゆい満面の笑みを決しておもてにさせることのない毎日の挨拶が繰り返されるなか、こころの底に沈みこんでいく懸念はこうやって空洞をくぐり抜ける不確かさに寄り添いながら、いつかは訪れることだろう先行きへの淡い期待となり、うっすらとした意識の裡に雪洞のように灯されるのだった。
検温を済まし、あたりさわりのない会話の余韻を少しだけ残して再び閑静な病室にひとりとなった美代は、不意に胸騒ぎみたいなものに突き動かされるようにして思考を集中し、かたちになりかけようとしている記憶のかけらを寄せ集めはじめた。

 

 

木枯らしが目にしみるままの冷たさは、多少の違和感を差し出ているとでも云う愛おしさの忍苦に逆に守られていた。

小学の二三年へあがる時分には、ひとり家路をたどる足取りにも習慣から得たものなのか、ひっそりとした分別さえ備わっているのでないかと思われる心持ちが波状をもって従容と充たされていった。

それは見慣れた通学路の並木に照りつける光線の、いつもとは色合いが違ったようにも感じられる彩度が決定権を揺るぎないものにする強引さより、もっと微弱な、おそらくそう勢いもない向こう風を身に受けるときに覚える、ほどよい刺激に親和が呼び起こされた、あの透明な感情が胸の奥底に沈んだままの柔らかな質感によるものであろう。
木々の枯れ葉を、燻ったかわら屋根の背景となるべくして青みが増した空模様を、庭先の茂みとの隔たりをさらにかけ離れた空間へ位置づける縁側を、、、

経年によっておおらかに朽ちかけてはいるけれど、雨樋をつたい流れおちる雨水がまるで濾過され純然と澄んだ清らかさを想起させるように、通り過ぎてゆく見知らぬ家屋の風情は見慣れた印象に変化させてしまう不思議をはぐくんでいる。

眠りのなかに入りこんでしまいそうになる安心感に包まれている落ち着きは、外の世界がまだまだ無限大なひろがりであることを脅威として知らしめるからでなくて、毎日の天候がその加減によって刻一刻と新たな光景を鮮明に描いてみせてくれていた。
すべては偉大な単調さのうちにあるのだからと念いは、確かに目にしみいるのだった。
雨上がりのしずくが草木を濡らしたままのすがたであり続ける、どこかの陰へとかくれ気ままに望んでいる意志のようなものは、目立って眼前にあらわれるのではなく、夜露が早暁に眠りをさまされるふうにあくまで抵抗を如実に指し示さないことで、隠れ蓑はごく相応に嫌がる素振りもみせないまま季節のさきへとその身を投げ出していたのだ。

美代は四季が織りなす町並みの移りようを描いてくれていた年少時に想いを馳せるとき、同時に風に巻き上げられた土ぼこりや、塀をのりこえ顔をのぞかせていた果実が香った印象を銀木犀の放つな甘い芳香とともに攻め上がってくるのだったが、その濃厚な記憶を明確につかみとることがもどかし気に意欲の淵へと消えていく失意をどうすることも出来ないままに、いや、正確には記憶の輪郭をたぐり寄せる意味を見出せないからだろうし、実際においての鮮烈な嗅覚の方こそが明確に追想を補強するのであって、やるせないうちに時間のうしろへと流れさる車窓の情景みたいに、醒めた視線が配置されている現実にたいしてそれほど感傷を持つまでもないことを、薄葉の手触りのように理解していた。
だが、五感をゆさぶる指先とも云える想い出の目線の彼方には、その薄くはかない紙質をかすろうと務めるもうひとりの自分が、ときの住人である決意を穏やかに保持し続ける陽炎となってこちらを見返している。
追想はしとしとと朝から降り続けた薄暗い天候が家のなかまで入りこんでいる、春さきの小寒い昼さがりの場面に音もなく落ちていった。

 

祖母がひとり縫いものをしながら留守番しているだけの、普段でもありがちな一日ではあったのだけれど、南に面した硝子戸からもらい受けるくぐもった明かりを頼りに手先を操っている置物でもあるようなすがたが部屋の端に鎮座している様は、一室を変貌させるに必要な条件をさり気ない手つきで添えられたに違いなく、電灯が活用されるまでのひとときをいま過ごしているのだと云う、やはり静かな気配にひたされた明暗がかもす雨空に圧迫された空間がどこか間延びとも似た不確かさで広々としており、開け放たれたふすまの脇に備えられている仏壇のとびらのうちの奥行きもまた、遠いところへと通じているありようを地に這う深い鉛色の絨毯のごとく漂わせていた。
きっと兄ならば「それは異界に向かってのびている門構えなのさ」などと言い出しそうな勘ぐりも閃光に近い邪心のなさで呼びだされる。
祖母は生来闊達な性格で、むろん末娘である美代に小言はおろか、しつけがましい物言いをした試しもない猫可愛がりの情愛にくるまれていたからであるのだが、足腰もしっかりとし雨天でなければ近所の老人仲間のもとを訪れたり、旬の山菜やときにはバスに乗り込み浜辺まで潮干狩りにと精を出すくらいの気力を維持していたのだけれど、今日みたいな薄暗さに寄りそう様子で黙々と手芸に埋没している雰囲気は、老齢そのものが別段意識するまでもなく薄日にひっそりとすがっているようにも感じられ、兄なら端的にあらわにしたであろう言葉のはらむ、それはすぐ近くの仏壇の暗闇の奥や、墓苑の石碑、砂底深いなかに想いをめぐらすことへの本能的な、もしくは自分自身を呪縛せしめている禁句が発令する永遠にたどりつくことが不可能な領域へと連れ去る磁力を察してしまうゆえんであったならば、、、きっと。

「天候に罪はない、ひっそりとしたあの昼下がりがよみがえってくるのも、わたしのこころ模様のなせるわざ」

美代はつらつらと思念をめぐらしながら、少しは気味の悪い場面ではあったけれども、あの寂寞として一種、日々のときから取り残されたような、鈴のねが遥か遠いところから鳴っていたような、桜も散りさった気候にしては肌寒く、薄手のカーディガンがほどよい温もりを与えてくれたやすらぎを決して忘れてはいなかった。