美の特攻隊

てのひら小説

化粧7

あの日のことはよく憶えているつもりだった。

陽子の家の光景を振りかえってみると、以外に一度しか足を踏み入れてないある部屋の調度類を瞬時に思い起こせたりした。

また当時の自分とさほど歳の開きがない望美の下の弟がずいぶんと幼稚で、いかにも傍若無人なふるまいで好都合の遊び相手だとばかりに駄々をこねては泣きわめいていたことや、機嫌がなおったかと思えばおもちゃのライフル銃を手に真面目な顔つきをして撃つ仕草を演じたり、弾が込めてある状態でいきなり発砲されたりもし、硬くはなかったが望美ともども顔や首筋に命中したときの痛覚さえ甦ってきて、ふたりして弟の昇からライフル銃を奪いとろうとした瞬時、部屋の空気を切る身の動きとちいさな風もそよいできた。

果たして出来事の隅々まで記憶の毛細血管は伸びているのか、それとも通わぬのは微細な領域にまで流れゆかない滞った血のほうなのか、萎びてしまった感情のなせるわざであるなら昇に銃撃され、文字どうりあたまに血がのぼったことの鮮明さに可笑しさと、複雑な感慨を見いだせる。
「こらっ、ひとにむけて撃ったりしちゃだめじゃない、あんた大きくなったら殺人鬼になっちゃうよ」
怒気をふくみながらも茶化すふうに望美がたしなめると、
「でもさあ、コンバットのサンダース軍曹はドイツ兵をやっつけてるから、ぼくがドイツ兵になって撃ちかえしたんだ。みんな死んだらどうなってしまうの」
「なにわけのわかんないこと言ってるの、とにかく絶対にひとを撃ったりしたらいけないの、あと野良猫とか裏のペロにもよ、わかった」
美代は昇の頓狂な返答で気分がなごんだのか、叱りつける語調はひかえめに「すずめとかもね」そう言いかけて内心では「でも動きのある的には全然無理だろうけどさ」と、思いながら目を細めてしまい、すでに泣きべそをかきはじめた弟を気遣った望美もおのずと似たような顔つきになって、ふたりにすごまれることを覚悟していた昇は、その目もとから怒りが消えかけていることにとまどってしまったのか、幼児の気まぐれは情況をつかみそこねてしまった挙げ句、やはり当然のようにして大声で泣きだした。
「あらあら、ちゃんとわかったんならもう泣かないの、あんたが泣くとわたしがお母さんやお姉ちゃんから怒られるだから、もう」
それでも一度声をあげ出すと虫などと一緒ですぐには泣きやまないのが定則、ほんとう段々大声になって虫みたい、と妙に感心しながら、最近はわたしもあんなふうに泣いたことないけどこの子くらいのときはなどと考え深くなり、弟を懸命になだめている望美のことばもうわのそら、茫然として視線を這わせているだけだった。
ほんの束の間であっただろうし、まだ涙と洟でくしゃくしゃになった顔が背を向けて部屋から離れようとした姿を憶えているのだから、それほどの間を置くほどふたりのやりとりを見過ごしていたわけではない。

けれども踵を返す昇を凝視できなかった事情が、逆襲にも似た振る舞いが、突発的であったと云うよりも、ほとんど過失だったのだとその後もずっと反芻するしかなかったのは、よもやもう一度銃をこちらに発射させることがないと確信していたからであり、運悪く至近距離からただ一発だけ放たれた兇弾が美代の右目にかなりの衝撃をあたえてから、はじめてことの有り様を把握したのである。

今度は容赦なく望美の叱責が飛んだ。すると、昇は不可解な現象を呆然とながめているふうに、
「わざとじゃないよ、バイバイって言おうとして手をあげかけたら勝手に弾がでたんだ」
「勝手に発射することなんてあるの、あれだけ反省した顔してたくせにさ、まだこりないらしいわね」
「そんなでも、、、ぼく、つもりなかった」
「ごめんね美代ちゃん、痛そう。まぶた腫れてるし、目も赤くなってるけどだいじょうぶかなあ」
「なにが起ったか、わたしわかんなかった。気づいたら昇ちゃんに撃たれてしまった」
「撃ったんじゃないってば、ドイツ軍は日本人を殺さないんだ」
「こら昇、また馬鹿みたいなこと言って、とにかく美代ちゃんにあやまりなさいって。あんたがやったのは確かなんだから」
望美の面持ちはきびしい目と口もとで強く固められ、自分より美代を痛めさせた昇に相当いきどおりを感じているように見えた。

 

 

「移ろったのは、あなたじゃない。あなたは正直すぎるくらい馬鹿正直だったわ。身勝手に解釈したわたしのこころがどこかをさまよっていたと思う、、、もう一度あの夢のなかに行くことが出来れば」

 

切々とした面差しをそこなうことなく、自身に言い聞かすようにもらした語感は、本人の思惑から隔たりをみせ呪文を思わせる効果に及ぶと、日々の疲弊は言霊に憑依されるのか、美代の視野は気まずさを含んだ憐れみに括られ、窓外の冬景色に溶けこもうとした。

薬が効いてきたのだろう、まぶたが重く感じられそのままいつもの眠りに誘われながら、目は潤いを慈しんでいるのだった。