美の特攻隊

てのひら小説

化粧9

その後どれくらいあの家を訪ねたのか、はっきりとは思い出せない。
陽子にあてどもない憧れを持ってはいたものの、毎回彼女が家に居るわけではなく、あくまで同級生の望美を頼って帰宅後、ときには下校の途中にほんの小一時間くらい立ち寄る場合もあったけれど、主にトランプや月刊雑誌の付録だった紙のゲームなどをしながら他愛ないおしゃべりに時間を費やしていただけ。
もっとも暇つぶしと云った感覚とは異なり、特に熱中する遊戯がその都度あったのではないが、散漫さと似てながら限られた範疇を惜しみつつある心持ちは、夕暮れまえに帰らなければいけないことや、大概は母親と一緒にテレビの前にかじりついていた昇が、時々ぬり絵や絵本を片手に仲間入りしてくること、小遣いのやりくりにも制限あるわびしさなどを含み、半時も過ぎる頃になれば決まってせわしくないのに、名残惜しさを到来させてしまっていた。
ウルトラセブンの顔はどの色がいいの、怪獣もこうかな」
ぬり絵の案配をしきりに問いかけてくる昇にも、それほど鬱陶しさは感じなく適当なあしらいはせず、かと云ってまともに相手をした覚えもなく、ただのどかな日和のなかで空気がまったりとしている滞りに余計な圧迫が加わってしまい、無論それが解放感の裏返しであるとはあの時分は知るよしもなきまま、意識するほどでない苛立ちが自由気ままを侵蝕している微かな響きを聞きとっていたにすぎなかった。


子供も領域はそんな微妙な空気圧のなかで、成人してから覚える虚ろさと同種の静謐に包まれていたように思う。

絵本を読んでほしいとねだる昇に対し、いかにもうわの空の表情と声色でただ字面を追うように接している望美を横目に見ている美代の気持ちは、感興をまったく得ない曇り空の模様によく似ていた。
午後の日差しを満面に受けた陽子の笑みで、かねてより密やかに心待ちしていたあの成果を告げられたのはこの家で送ったいつの日だったのか。

夜の気配が玄関を通り抜け、室内に漂いはじめたのを感ずることは、他人の居住まいを容赦なくよそよそしいものに仕立てあげ、次第に不安感がつのりだし、得体の知れないものに対する恐怖心で充たされはじめる。

薄曇りを迎え入れた一室で行われた内緒の出来事からしばらくたっていたには違いないけれど、それから陽子を交えて話す機会は一二度あったようにも思われたが、望美や昇を排する格好で面と向かったことはあり得なかったと記憶する。

 ところが、ある日のこと、

「あら、美代ちゃんちょうどよかった。二階にいらっしゃいよ、望美は自転車の修理に今出かけていったばかりなの。あの写真仕上がってきたから見せてあげるわ」
そう玄関口で声高らかにに誘われた瞬間、幾度か入ったことのある陽子の部屋へと上る階段際から、奥の間にいる気配がする昇と母に挨拶し、一段一段踏みしめながら彼女のうしろ姿を追って異様に胸をときめかせたことが、嘘のように焼きつけられた。


「わたしは忘れていない、気おくれに流されてしまった、あの吸い込まれてしまいそうな緊迫した願望を」


階段途上で陽子がふと振り返って見下ろしたときのまなざしに美代は完全に我をなくしてしまった。
前髪が振り乱された後でもとに整えはしたものの、幾条かの毛がひたい真ん中から鼻筋に沿い、ふくよかなくちびるにへばりつくみたいにして垂れ下がっている。

その両脇に位置する瞳には憐れみと懇願に滲んだどことなく眠た気な黒目が宿っており、凝視するちからこそ半減しているのだけれど、上下の睫毛をも潤わしてぼんやりとした光を放っている様子には、やはり憂いを最前に醸し出すことをためらっている加減が如実にうかがわれるようで仕方なく、それは陽子が今まで見せたことのなかった意思を示しているとも思われて、凄みと云うよりも魔性にでも魅入られたときに反応する姿を見つめ返している危うさも付け足され、冷ややかな感触を与えはしたが、陰にこもり勝ちとなるべき印象は視線の内奥に棲まう常軌を決して逸しはしないであろう、冷徹な信憑に守られ培われ、不穏な形相へ堕してゆくことなくぎりぎりにところで均衡を保ち、さきほどの微笑がとっさに甦ることにより、邪念は涼風にあおられるごとく払拭されてしまい、さながら冷水がもたらすここち良さのなかに優しさを見出すのだった。
無言のうちに再び背を向けた陽子の気持ちに応えなくては、、、

 

息をのんだ後、美代はかつて幼きころ家族旅行で都市に出かけた折、乗り継ぎ駅の構内で迷子になってしまい散々泣きわめいて困惑するしかなかったこと、ようやく両親に見つけられてもなお泣きやむことが出来なかったのは安堵だけではなく、底知れない不安を経て間もないにも関わらず、まるで兄が語る怪談に聞き入ってしまったのちもその戦慄すべき気分を反芻し続けていた情況に酷似していること、そして脱し得た恐怖の向こうに、どこか懐かしいと思える辻褄の合わない心境を不思議がるのであった。