美の特攻隊

てのひら小説

恋人のいる時間

しばらくぶりに知人と酒場で落ち合った久道は、自分の髪が金色から銀髪に変化しているのを指摘され、

「なに、新月の夜に染め直すから脱色してしまうんだろう」と、生真面目に説明した。

凡庸とあしらいながら、常識では計りがたい相変わらずの言い草に知人は苦笑するしかない。

久道は機微を心得ているというより相手の横顔にさした歪みに、本質的な相違を重ねかけたのだったが、分別めいた咳払いとともに話題をかえ酒を飲みほした。

「ところで東京はどうなんだい。おれが住んでた頃とは随分かわったろうな」

「まあね、が、いちいち変化する町並みを見届けてなんかいないし、気にかけることもないよ。もっともこっちが取り残されているような気分をときたま感じるけどね。ときたまだよ」

惰性に近いとりとめのない会話、あの焼豚が特大だったラーメン屋はまだあるのだとか、駅のそばにあった花屋のかわいい娘はどうしただの、よく吠える割には尻尾をふってじゃれついた近所の犬は元気なのか、住んでいたアパートは取り壊されてないかだの、懐かしさを喚起する質問が口をついてでるのだが、それほどひりついた感情はともなってこない。

知人は愛想のいい店員みたいな顔でそうした問いに応えてくれるので、確かに当時の景色や東京の空がまぶたの裏によみがえり、情感に羽が生えかけたのだが、久道のなかでは別の羽化しかけたちいさな昆虫のつたなく、危うげな動きが別の情景に移り変わっていくのがわかり、まるで真綿で包むように手を差し伸べ始めていた。

知人が小用で席を立ったのが切り口になったのか、静かに流れてくる音楽に誘われるふうにして、甘く切ない想い出が胸に去来した。

 

「きみはぼくの腕のなか、微かに吐息、夢の果てあたえられるすべての愛、、、」

「それ、ひょっとしてわたしのこと歌ってるの」

都会の夜に静寂はひろがっていなかったけれど、彼女の澄んだ声で発せられた言葉はとても静かに聞こえた。

自分の朴訥な歌詞でさえ衣擦れに似た、柔らかな雰囲気に染まっているふうで、相手の目を恥ずかしげに見つめた。あの陽気の到来をかみしめる心持ちでちや子と花見に出かけた記憶が鮮明に訪れる。

「きみのために桜は咲く、晴れた空にあざやかに咲く」

辺りに気遣って控えめに口ずさんだ歌の一節に微笑みを返してくれた光景が忘れられない。

ちや子の感情、、、いや、そうではないはずだ。久道は微笑の奥にとどまっている、ちょうど真珠貝みたいに傷つきやすく、壊れてしまいそうな美しさにためらいを覚えていた。同じ職場でいつしか恋愛へと発展し、もうすぐ一年になろうとしていた。

久道の音楽に対するひたむきさに好感を持ってくれ、彼もまた更に意思を伝えたく、ちや子を歌にしてみた。

それはついにふたりして歩くことのなかった楽園に匹敵する青い渚への憧憬であり、一方では昼さがりの陰りに知る白いテラスのなかの時刻に、不穏な空気をまとわりつかせたのだった。

「きみのうたが風のように通りすぎていくから、夏の日のスローな波のリズム、やしの木陰でぼくはあふれる肌に感じてる」

ちや子には届けられなかった曲だった。音としては捧げられたかも知れない、が、現実の響きは久道の躊躇で夢見の彼方に置き去りにされてしまっている。

自分が感じている以上にちや子は久道に寄り添っていたに違いない。

求婚の片鱗は声として振動しなかったが、その愛くるしい目もとが不意に曇るとき、おどけた表情に罰が下されたふうに眉間が険しくなったとき、彼女の願望は狂おしいほど久道を取り巻き、切迫した。

「ぼくはこれからもっと音楽を極めてみたいと考えている」

若さゆえの意気盛んな欲望は引き裂かれた。その夜、久道はいつになく激しい息づかいと力でちや子のからだを求めた。互いに昇りつめた矢先、ちや子はそっと目を閉じ、こみあげてくるものを制しているかに見えた。そして髪が乱れたまま、東京の片隅での恋は終わった。

「かわす言葉はなにもなくて」

虚しいフレーズだけは現在まで鳴り響いている。決して重荷を背負いこんだばかりでなく、どちらかと言えば、その後の久道の孤独の慰めとして役割を努めて来たように思える。

 

知人が席に戻ったとき、連鎖反応のごとくトイレに向かった。用をたしながら虚しい想い出が不浄な思惑にまみれていく感覚にとらわれ、首を軽く振った。

手洗い場の鏡に映った銀髪に新月を呼び寄せたのだろうか。何故かしら気持ちが若返ったようで、さきほどまでの記憶はふたをされ、酔いにまかせた今この瞬間だけを愛でた。

そうすることが償いであるべきだし、無用のしがらみから逃れるすべとも思ったりした。鏡の中には自分がいる。

トイレの扉を押し開けたとき、足もとがぐらついた。

「危ない、危ない、この間も堤防の先端から足を滑らすとこだった」

青い渚を想い、大海を眺望した健気な気分は夜に祝福されており、また呪詛されていた。