美の特攻隊

てのひら小説

墨汁

遠慮勝ちな態度で筋書きに従ったつもりだった。
そして途中、もうひとりの自分が語り聞かせる入れ子の情況もそれとなく察知することが出来た。
女はまだ若く、自分より年下に見える。
そう覚えるのが符牒となり、あるいは己の所感がまだ交えぬ肉体をはさんで、これからはじまる尋常ではない儀式をまえに、克己心を奮い立たせ、決して欲情を放擲せず進んでいく為にも、せめて肉欲にまつわる栄養素を抽出しようと、果実の皮に指先を入れる感触で味覚を先取りし、焼きあがりまえ火が中ほどまで通った牛肉がしたたり落とす肉汁を食前酒に見立て、恐怖を快楽に、不安を充足に、そして絶望を欲望に転化させようと試みた。

しとねにそそがれる家族らの視線はきわめて沈着であった。
すがたかたちを消し去る思いで、これから実行に移される重要な実験に立ち会ったものだけが味わう苦悩をかみ殺しているかのごとく。
もうひとりの自分は、霧散したのか、それとも精神のなかに新たな入れ子として消化されたのか、今ある戦慄は何ぶんかわりはなく、半身を起こし寝間着を脱ぎだした女の、やはり裸身へみみずにように這っている墨書きが、首筋から肩を流れ、腕を伝って落ちてゆき、一方では乳房の豊満な起伏をなぞりながらへその下まで続いてゆく途切れのない執念の筆使いを、思い知るまでだった。
下着はつけてない、いよいよ経文と不可分であらわになった肉体が顕現すると、女はふたたび横になり両の脚をゆっくりとひろげ腰を少し浮かせて、陰ったところをおしげもなく披露した。
まぶたを閉じたつもりだったが、迫りくる情欲がむこうからやって来ず、実際には我が身が押しかぶさる勢いで女体に突進していることを自覚したのであり、その目は十分に開かれていたに違いない。
一瞬、裸身の経文が生きているように、水の流れのように、動いて見えたのだったが、動きを封じる要領で二本のふとももの裏に手をかけ持ち上げ、腹にひっつくほど開脚させ、うえから押さえこむ具合に固定し、まだ閉じた貝の盛りあがった土手のような箇所をまじまじと見据えた。
すると、女は肉塊に宿る心性はこちらにあるのだと言いたげな面で目線をそらして、じっとこちらの瞳をのぞきこみながら、それまでの表情を一変させたのである。

坂道を転がり続けると思えた肉欲は、止まることを知らない眼球となって食い入るごとく裂け目に落ちていく宿命だったのだが、女が示した薄笑いのうちに露見した奇異な、塗りこまれたお羽黒の並びと対面するに及び、これで紋切り型の宿命ではなくなると、激しい情がこみあがってくるのを覚え、坂道は一気に勾配が急になり、たどる道筋さえ失って、まるで瀑布に飲みこまれる小舟のように無抵抗なまま巨大な暗渠へ落ちゆくのだった。
せめてもと妖魔にくちづけする驕慢な震えは、意識が消えかかる矢先にまるく膨らみ、こんもり茂った黒草のしたへ唇をぬめらすように押しあてる所作を要請した。

わずかに潮の匂いが、海藻が、野の雑草と同じように草いきれを放ってうららかな春日を謳歌し、やがて朽ち果てることを承諾しているかの香りが、つつしみ深く口中にひろがる。
意識がそこのあることを知りつつ、なお、からだはここにあらず、ちょうど撮影される全景をその場所以外から傍観しているような、しかし、まったくの非在を認めるには心許ない浮遊感に似た覚醒であった。
やがて気構えする猶予は省かれ、訪れたのは遂に探しあてた現場への胸騒ぎであり、宝くじが当たったことを一度は否定してみるような当惑が、日常の実感と寸分違わずわきあがってきたのだ。
「やっとたどり着いた」
つぶやきが胸のなかを吹き抜けてゆけば、再びあらたな意思が夜風とともに舞い込んだのか、極めて冷然とした目つきで、川面に半身を沈めたあの寝間着すがたを見いだした。

同様に夜の河口に身をひたしているかと云えば、そうであるとも、そうでないとも云えよう。
なぜなら自分の目はカメラのように遠景から近景へと自由に行き来し、女の顔をとらえることも、あたりを時折はねては水のなかに潜るボラの遊泳もありありと目撃でき、中空にかかる妖しい月光を受けながら身もこころも溶けだしては、もはや己であることが奇蹟に感じれるほどに、夢は美しく悩ましかったからである。