美の特攻隊

てのひら小説

ラビリンス

生来の方向音痴をあらためて実感することは、心情的な揺らぎに即するところもあるだろうが、嘆かわしさの当てられている皮膜を伝う振動に冷や汗は生じず、むしろ鋭角的な意識が見知らぬ領域へと散漫に、そして逼塞した気分は首輪を解かれた犬のように、無心を享受していたと思われる。
進学のため上京した当初、通学にはバスを利用しており、行きは遅刻の懸念から乗車するとし、帰りは節約も兼ねて慣れてもいない街並みを急くこともないまま、徒歩でぶらついたまではよかったのだが、皆目アパートの在りかを見失ってしまって途方に暮れ、道行く人々に尋ねてみても、電柱に標された番地を見つめても一向に埒が明かず、結局タクシーを拾って安堵する始末。
これを三度繰り返し、ようよう帰途を学習した。

慣れというものは微笑ましいというより、薄気味の悪い構成に委ねられているのではないだろうか。
別に根拠はないけれど、明治カルミンを何十年ぶりかで食べてみたら、その淡い薄荷が舌にひろがったのかどうか、よく判別しかねていると「ああ、なるほど」それとなく納得させる風味が確かに口中に残り、強い刺激を売りにした最近のガムなどに比べれば、ただそのシンプルな色合いのラベルに郷愁を覚えるまでで、取り立てて感心するほどでもないなのだが、美味なのか、程よいのか、物足りないのか、詮索するのも億劫になってしまうあたり、いい加減な反応で取り繕っている気がする。
決してカルミンのせいではない、構図から見れば来るべき頽齢を先まわりして悲嘆しているような忙しなさと考えられ、まさに神経作用の奉仕が実っているのだろうし、遺憾ながら手放しでは喜べないのが実情であり、というのは方向音痴を峻別する決め手は俯瞰図の欠如なので、私自身は何すら描きとれない不安を自認するしかなく、手もとにもあたまの中にも見当たらないから、方角は直感によって示されるべきなのか。

いつの間にやら意識せずとも身体のほうで勝手に、まったくご主人様には一切わずわせることないまま、宴の支度を見事に整えたふうな召使いの役回りに徹してくれているのだから、増々砕心の機会は失われ、気がつけば醍醐味にありつけないうちに終盤にさしかかってしまう無為に至るのだ。
薄気味悪さを知るのは、おそらく抜けるべき通路や上がり下りする階段に慣れ親しんでいると確信したときで、X線みたいに眼には見えない、いや、こころだって感知しない走りとなって透き通っている刹那にあるのだろう。
そういう意味では両義的であることを訝しがらず、たとえ味覚も舌鼓もなくすでに満腹であったりしても、肉体の火照りを残さぬまま欲情が晴らされていても、買い物をした記憶がないのに宅配便が届けられても、旅行に出たはずがもう帰省していても、眼が覚めたのにまだ夢になかに居たとしても、あまり悔やんだりしないほうが利口だと思うのだが、、、


南国旅行は楽しかったのか、少なくとも無事に帰りの列車に乗り込んでいるのだから価値観を問いただすまでもない、もう見慣れた風景が流れだしている。
「往年の車掌シリーズの映画に似ているな、ただし、いつもながら出発じゃないってとこが洒落にならない」
まったく余韻を忘れた調子で映画館から吐き出された按配で、虚無さえ苦笑していた。パターン化された光景はたまには寸断される。
今回はえらく近場だと気づいたのは普段着を意識しなかったお陰なのか、そして隣町のK市の駅舎に佇んでいるのは、以前の立ち食いそば屋での困惑、つまり北南の均衡を保ったつもりだろうか。
とすれば、一悶着あるのは当然だし、器ばかりで中身を食せていない苛立ちの燃えかすも、最初から燃えかすらしく燻っていたので、好むと好まざる連鎖反応により、無性に帰りの時刻に圧迫され出した。
「でも、今日はヒッチハイクなんかしない、国道にも出ない、このまま速やかに後続列車に乗るつもりだ。迷子だって知恵がつくんだよ、やあ、この間の質問通りさ、実際じゃない、覚えていてくれたらこれからの曲芸を見守ってほしいな」
どうせまともな道筋ではないと投げやりな姿勢だったが、両の眼をこすってみる猶予なく、ここはK市に違いないけれど、どうも造りは都会の駅ビルのような雰囲気で、しかもけっこう広いスペースの書店に来てしまっている。
こうした場合かつては必ずといってよいほど、水木しげるのまだ見たことのない分厚い特集本を手にして有頂天になっていたのだが、今回は自分なりに「迷子」「知恵」「曲芸」とそれなりの意味深な、が、おおむね無責任なキーワードを虚空に並べておいたので、書物には触れず、とにかくレジを探し、大概そこが出口に通じているからと解釈していたら、秒殺の勢いで通路は床ではなく、背の高い本棚にかけられた梯子を上って天井すれすれのところを渡っていくのが分かり、早くも立ちくらみを覚える。
誰もがそうして梯子に手足を引っ掛けているので、疑うことも面倒になり同じ物腰と、たぶんよく似た心境で「ああ、しっかり固定してある。手すりもあるんだ、けど狭いなあ」などと、左側に手すりっていうのが方向音痴からすれば、どうにも落ち着きがよくなく、また出口に向かっているのかと不審がよぎりもし、先行く人の背のもの言わぬ風情に感じいるものがあって難なく反対方面へとたどり着いた。
ところが、まだまだ青みをたたえている空の下に出るやいなや、強烈な空間圧縮の極意をまざまざと目の当たりにしなくてはならなかった。
先の三つのキーワードを一気に使い果たした感に逆襲されたどころか、蕩尽するのはこちらの方だと言わんばかりの絶景にねじ伏せられた。
かの海岸に神々しくも屹立と立ちはだかっていたはずの獅子岩が駅舎の脇に隆として居座っている。そればかりではない、何と駅の改札は深山に囲繞されたほこらの様相でこじんまりと息をしており、奇景を通り越し、もはや次元を異にする構えであった。
「しまった、逆だった。どこまで音痴なんだ」
ちなみにこの直感は相当な説得力を擁していて、疑いの余地はなく、急激な焦りがいつものように押し寄せて来る。もと来た道を引き返す愚かしさも忘れ、厳密にはそちらが正解だったかも知れないが、同じ轍を踏む行為から離脱した観念は再びあのキーワードを呼び戻そうとしているので、駅前を見まわせば、交通量も多く、行き交う人のすがたもまた生き生きとしており、このまま右手に折れ、遠まわりになるけど排気ガスも清々しい広い車道に沿った歩道を進むことに決めた。
急な勾配にさしかかった辺りでは、いつしか貸し自転車にまたがっていて、この歪な距離感こそが肝心であることをしみじみ胸にひたしながら反対口を目指した。
途中寝転がっている若い女性の傍を横切る。会社帰りなのだろうか、曇り空色した制服の裾からのぞく膝上が妙に自然に映ったが、速度の加減でいつまでもはだけた足ばかり見てられなかったので、その顔色をうかがうと、別段急病の気配もなく、酩酊の具合でもない、かといってふざけている振りには見えなくて、あえて例えるなら、一度とにかく歩道に身を横たえてみたかった、太陽がまぶしい、どことなく不気味だけど陽気な表情をコンクリートに焼きつけている、まなざしの片鱗にそう反照した。
とすれば俄然意気込んでしまい先行きは変調をきたしかけが、何ぶん今日は特別な一日でもなくて嫌に追い風が身に重いだけ、そして腹立たしさも静かに澱んでいるから健全なのかも知れない、想いこそ突風となれ。そこで言葉にはしなかっけど、代わりに片目をつぶり挨拶とした。だが互いの視線は交差せず、雑草のようなありきたりの情感だけが後ろへ後ろへ遠ざかってゆくのを認めた。
それからしばらくして漸く迂回の成果を目前にした。改札口が近づいて来る。横には電話ボックス、今まで感じなかった空腹も身近だった。私は無心だったのだろうか、そんな愚問も後頭部から飛び出す。
切符を買おうとして、ふと少し離れた岩屋に人だかりを発見し、眉間にしわなぞ寄せて、いかにも興味のない素振りを現しつつ、しかしどこか人情じみた熱い鼻息をなくしていない、それで何事かと、遠まわりって実は文化なんだよな、どれどれ、そんな岩をくり抜いてどうする、皆さん順番待ちなんですか。そこの外人さんも、なるほどねえ。
メーカー不明のチュウチュウアイスをうまそうに吸っていた年老いた男から返ってきた答えは、自分の態度や質問より、遥かに底が深かった。
「あと7メートルなんだよ。ツルハシ一本の人力で、しかもひとり一振りだ、どこへ貫通するのかって。さあ、誰もそんなこと考えているもんか」

目覚めたあと「意識は何メートル潤色されるのか」などと、妙に分別くさい発想が顔を出した。