美の特攻隊

てのひら小説

投函 〜 あの夏へ 13

麻希や森田らの親しげな会話は、更けゆく夜の気配を招きいれたとでも云うようにして、十分に明るい店内へと忍びよった微風の如く、一層こうして対座している場面を、テーブル上に運ばれている各自の飲み物や料理の並び方を、それとなく意識させる、あの読点に似た間合いを覚えさせさない流麗さでもって、純一の皮膚全体にめぐっていった。
ほどよい刺激が産毛まで揺れさせてしまうように、そして微かに開かれつつある毛穴へと浸透してゆく際の、肉眼では窺い知り得ない暗部へとひかり差し込んでいる想念は、転じて目に映る身近なものをより鮮明に輝かせる。
すると、照度は視覚との均整を保つ為であろうか、まるで透明なビニールシートで覆われた物体を目の当りにしたときみたいな、興味本位な親近さが最前より備わっていたかの光輝を放ちはじめる。
奥行きはせばめられ、均一化された、白々しい光線を浴びてでもいると云うように、、、だが、日常の方向感覚とは異なった、浮遊した無限性をそこに見ようとしているのは、やはり酔い心地のなせる技だとしたら、箸で何をつまんだのか、ビールのグラスを半分以上飲みほしたのが、どれくらいまえの時間だったのかを気にかける必要もあるまい。
「きっと瞳孔が小さくなってるんだ」
純一のため息にも似た想いをしたたらす様子は彼を取りまく人たちのなかに、目には見えない風となって届けられたのか、自分の感情を振り返るまでもなく、まさに手をのばせばすぐそこに相似形の海綿があり、今度はこちらへと急激に近づいてくるのだった。
波の合間と水しぶきが、お互いに距離を量りつつ、空隙を形成し合うごとく。

麻希と香穂は、思わぬ本音が飛び出したということさえ忘れてしまったようで、先程までの結婚観まで尾を引きかけたやり取りが、偶然の間合いであるように、しかし実際の注文が酔いの空間でエコーしただけなのだが、並んだふたりの間を裁断する具合にのびてきた店員の腕まくりされた手によって、ちょっとした一息を入れるタイミングになった。
「あれ、またビール頼んだの、わたし、ビール飽きちゃったから、焼酎おかわりしたんだけど。あっ、純一くんのじゃない、わたし、すこし酔ったのかなあ」
笑顔が笑顔である為に、抑揚を増幅させることで、例えるなら、よりボールが大きく回転するようためらいなく表情が刻印される。
本人とは無関係の感情がそこに訪れてしまっているかの、荒磯の激しい波の意思にも似て。
そのとき見せた、麻希のどんぐりまなこは、反対に受光を狭めたふうにも映り、尚もその瞳の底のほうでは相変わらず相手の全体像を飲みこむ勢いなのだろうけれど、その両脇に寄せられた数本のしわは、ちょうど蜘蛛の足を想起させる敏捷さでもって線引きされており、ときの垣根を飛び越えた加齢のあかしは、却って瑞々しい顔つきをそこに誕生させてしまい、少女と老婆を類比させようにも、発想の提起自体がはなから意味のないことを悟らすようで、あえて印象のありかを問うならば、それは瞬時にして美しく歪んでゆく、子供こころの無邪気さに由来していた。
まわりめぐって拡大されたのは、ひかりをいっぱい含んだ両目が時間に溺れてみただけのこと、、、その端に刻まれる不相応なしわが走る彼方など露知らずに。

麻希の微笑み、それは純一にとってみれば、ある異変とでも呼べる好感に変容されることであり、いびつな美しさにまとわれている現実として投げかけられたのである。

ひとが恋におちいる寸前を、瞬間に冷凍されるこころ模様を、一気に沸点に到達したがる熱情を、あたかも時計の針をゆっくり、そう、ゆっくりとねじが蔵した気丈な反撥をも介せずに、それがまぎれもない自然の営みであるように、巻き戻してみると、無に似たその区画は盲滅法、ちょうど小賢しい気な蟻の群れが乾燥した土のうえを這いまわる仕草を思わせ、けれども早送りされるように不自然な動作によく目を凝らしてみれば、どうにも無駄な起居かとめぐらすあの思惑にせめぎとめられるまでもなく、その微小な光景からはなんと馥郁たる香りに包まれた、機能美に連なる臨場感を得ることだろう。
蟻たちが立てる点を喚起させるリズムの、なんと粘着質で優雅なことか。
潤いを求める口中に、一番最初に含み、流れ、浸透してゆくであろう、そんな瞬間。

わずかに不快ではない耳鳴りを感じた頃、時計はもとのすがたを取り戻し静かに帰ってゆく。
面倒な、けれども未知なる恋ごころの旅すがたが、蟻の群れだったとすれば、純一は砂の一粒一粒をかき分けてみればよかったのだった。