美の特攻隊

てのひら小説

投函 〜 あの夏へ 16

歩く時間を閑却させるほどすぐ近くにあるスナックのカウンターに並んだときの別種な気分を味わっている間もなく、香穂が乾杯とともに一曲歌いだすと、他の客らの手拍子が加わって、にわかに雰囲気は明るくなり、とくに遠慮してみたわけではなく、三人のあとに座った席の隣がたまたま麻希であったと云う現実にスポットライトがあてられた高揚に乗りこめないでいるもどかしさは、さながら喧噪のなかでの孤絶感を想起させてしまい、そうなると横目で窺うような自分の目つきに過敏にならざるを得なくなってしまうのが、やはりまだ拮抗する胸中を意識しているからだと、純一は思った。
しかし、いまは森田、香穂、麻希、自分と横列した場面に感謝しなければいけない、ふとあたまをよぎったのは疑うべくもない、思惑はどうであれ麻希に引き寄せられている事態を承認する、いわば通行手形みたいなものであった。

気持ちよく声を張り上げる香穂のすがたに感心する振りをして、その視線は焦点をあわせるようにたぐり寄せることで麻希の横顔を不自然ではなく、堂々と見つめることが可能になった。
森田はなじみらしいカウンター向うの女性となにやら話しこんでは、まわりに囃され連続して歌声を披露する香穂に時折、拍手することも忘れてはいないようで、一番はしに位置した純一にとってそれは約束の地をあたえられた迷い子になった。
そして、思いついたと云うふうに目のまえに置かれた焼酎を迷うことなく一気に飲み干した。
「あら、若いひとはさすがに豪快だわね」
そんな愛想に真正面から応じるよう、ママらしいもうひとりの女性が作ってくれた濃いめの水割りを何杯も勢いよく喉の奥に流しこむ。
途中で歌の順番が自分へとまわって来たときには、すでにスピーカーから鳴り響く音とは異なる耳鳴りのような音が空気中を漂っているなか、自分にマイクを渡そうとする麻希に対して、
「僕は歌は苦手です。いえ、けっこうです」
そう昂然とした口ぶりで意思をしめし、香穂の高ぶりへと連なるよう、あたかもその場の情況に自然であるよう、拒絶を柔軟に仕上げたのは決して胸算によるものでなく、あくまで本心から願ったことだった。
再びマイクを手にした香穂の微笑みが、自分の意想に照応したであろう連鎖を確認したとき純一は、初めて麻希に対して距離を埋めていることに積極的である姿勢を見いだした。そしてこう言った。
「麻希さんは彼氏いないのですか」
すると一層どんぐりまなこを輝かせ、
「あれ、純一くん、そんなこと聞くんだ。じゃ、教えてあげようかなあ。わたしはね、去年の春さきに大失恋しちゃって、このまちに帰って来たんだよ」
自分でも予期しなかった、反動のような勢いが込みあがってくる。それがいつから蠢いていたのかは知らない、、、嘔吐をもよおす加減が唐突であるのと同じく。

純一はもう酩酊の手前で横断歩道を左右確認しないまま渡る、無頓着さで危険を信頼してしまっていた。
すると麻希の心中も同様に乱雑な文体で綴られた物語りのごとく、読み解いてしまうのだった。
自分の酔いが相手の酔いと同調し、錯覚であることを認めようにも、それが実感となってこころのなかを満たしてゆく限り、混乱は素直に落ちつきを認めようとはせず、暴走は程よい抵抗の風を生みだす行為となり果て、涙も血も鼻水もよだれでさえ肯定する覚醒した夢想にひろがってゆく。
唯一、片隅でささやくように点滅しているのは、膨満し続ける意識が虚栄を育んでいるのではと云う怖れなのだが、幸いことにこの信号には色彩が剥奪されているのだった。
悲哀と悔恨は酔い覚めの朝、陽のひかりで照らしだされてから彩りを取り戻すのである。
縮小する意識が虚栄を持てあますことで、反対に居場所の明確な彩度を探りあてると云った方程式は背理ではない、何故ならそれは営為そのものだから。