美の特攻隊

てのひら小説

投函 〜 あの夏へ 20

目が覚めたとき、純一はここが何処であるのか瞬時に判別することができなかった。
しかし、次のまばたきで確認された事態は、夢の出口を振り返る想いよりも先行された、外泊をしてしまった、三好の家に釈明を、と云った焦燥が前景に押し出されるのであった。
ただちにそれが杞憂であり、三好から酔い加減によってはうちより近い森田のところに泊めてもらえばいいだろうと、遠慮せずたまには羽をのばしたら、そう言われていたのを思いだして、安堵を重しにあらためてまどろみのなかへと沈下するゆとりを持った。

後景への歩幅は夢見の重力から逃れる意味を知らないまま、沈みゆく枕の安らぎを保ちつつ、そうして弱音で奏でられるピアノの旋律のごとく、ゆるやかに戻る、たおやかな身のこなしであった。
それは極めて短命なときのまたたきであっただろう。
ふたたびまぶたの裏に赤い色彩が染まりだし、まわりにひとの気配が感じられない意識へと推移したのは、そこに麻希の姿を見いだすことができないと云う、敗北に似たおどろきを受理するためであり、明るみにさらされることのなかった初めての女体を、陽光にさらわれてしまっている悔恨に惑溺するためであった。
奇跡は自ら捻出されるべきだと妄信した根拠の彼岸には、砂上に構築された城塞が純白のかがやきで崩落しようとしている。やがては深く沈みゆく古城と変異することを願って。
ベッド脇の小さなテーブル上に置かれた光線を欲しているような鍵と、麻希が書き残したものを目にしたとき、その字面を追ってみたあとにも、純一のこころに波紋がひろがることはなかった。

「よく寝ていたので起こしませんでした。わたしも今日は仕事は休みですが、実家に用事があって午後まで帰りません。それまでいてくれてもかまわないけど、もしそうでなければ、この鍵で施錠して入り口左手の傘立てのなかに入れておいてください。麻希」

壁に掛けられた時計の針は九時をまわっていた。
我ながらよく痛飲したものだと妙な自信がわき上がったのも束の間、カーテンでさえぎられた窓のそとを窺えば、左手にこじんまりした傘立てが見つかった。
純一は昨夜の服装を身につけたままであることにとまどいを覚えたが、腰のベルトが随分と緩んでいることでほくそ笑み、室内には冷房がほどよくゆき届いていることも感心して、おもわず白日を呼び込んだ部屋全体を見回してみるのだったが、ひとり暮らしの若い女性にしてはえらく殺風景な印象で、それより脳裏をめぐったのは情交の光景へと飛翔しかけた充たされない幻影が空まわりして、羞恥らしい居たたまれなさが虚しさに飲みこまれてしまうまえに、麻希の言うよう、影は影のむこうへ、幸いにして灯りに見とがめられることがなかった故、足跡ひとつ残さない気持ちで速やかにこの部屋をあとにすることができた。
不思議なくらい強く握りしめてしまった鍵を水底へ沈めるように収め、小走りで自転車を置いてきた公園へと向かった刹那、初夏らしいまだひかえめな陽射しが、それでも鮮烈な印象を常に肯定させようとする気概のある光線を斜めに浴びた。
鍵をつかんでいた手の芯には微かながら、それは陽炎が立ち上るゆらめきのように曖昧でいて、しかもめくらむほどの甘酸っぱさを味わさせる。
これはまぼろしなのだろうか、それとも夢をみていたのか、、、だが、この掌に残る未知なる感触、己の身体とは別種の柔らかでしかも張りつめた弾力の新鮮さ、あるいは指のあいだに、そうまるで櫛で梳く要領で長く色香がただよう髪の流れ、、、あらゆる方向へと曲線が描きだされる様を果てしなく愛撫しようとする意志を持ったこの掌。
耳を澄ませば、夜の扉はきしみをあげ闇の情炎を解放しようと、哀しみを帯びた悦びが幽かに聞こえてくる。

しなやかに躍動する上半身はいにしえからの妖術に操られてでもいるふうに、乳房を原始のリズムで弾ませ、続く腹部にまとわるもっとも柔らかな肉付きは優雅に小刻みしながら左右へ振動を伝えているようだ。
女体の存在を知らしめる尻から、餅のように伸び膨らむふとももの頑丈さは、股間に茂りからの叱咤に反撥する様相で、その局部を変幻自在にかいま見せることと熟知しているのは、どこまでも力強い大蛇のうねりを連想させる。
一見小柄に映る女体のほんの薄きれ一枚隔てた先は、何と豊満な密林が展開しているのだろう、、、体内から湧出するもので湿ったところへ指先が到達したのは、すでに目に見えない糸とやらで結ばれていたあかし、、、そして渇いたくちびるを潤すためにときめきながら近づき、その泉に潜入してゆく。
両の手はすでに撫でつくした感触と異なり、あらたな悦楽がこの身に訪れる。
いや、この身だけではあるまい、此岸と彼岸が出会う刹那、おんなのからだにも異変が顕われ、もうひとつの世界へと移り住む心づもりが、満ち潮のごとく押し寄せてくる。
幻想は終止符を打つよりも罪深く、純一にある実感を悟らせた。
手のなかに包まれる金属片がもたらした、柔軟な白日夢。
救いがなかったのは、そんな白日夢を他者も共有しているとは到底およびもつかない現実にあった。