美の特攻隊

てのひら小説

投函 〜 あの夏へ 23

吐息ととも熱気に冒されたあきらめを含んだとまどいが、遠い胸のなかで結晶のように成りかけるのをなかば知りつつ、また情念がことばとして紡ぎだされようとする今、秋風に吹きなだめられるやや渇きかけた純一のくちびるに対し、初恵は混濁した汚水があふれる様を想い起してみた。
それは、人気の途絶えた山道に思わぬ人影を見いだしたときの木々のざわめきを序章とし、相手のほうから予期しない笑みが木漏れ日とともに投げられた際の、動揺があらかじめひそんでいることを自覚し得ない不透明な、けれども気が薄らいでいく曖昧さに包み込まれている感覚であった。

「あのう、このさきはまだまだ山の上に続くんでしょうか」
ためらい気味と云うよりもそこには問いかけ自らが、まるでこれからはじまる冒険を冷ややかに楽しんでいる野心が勝っているふうに初恵には聞こえ、
「はじめてですか、この道は山腹をぐるりとひとまわりするのです」
と、勢いよく通った口調はあきらかに彼の存在をたった今発見したふうで、物怖じはなく、これは純一が醸している佇まいによるのだろうが、それ自体なにものかに先んじる感情を前面に押し出して、自身の気持ちを快活とした声色にさせた。
その後、ふたりが交したやりとりは、澄みきった天空から降りおちてくるような小鳥たちのさえずりに囲まれ、ときおり頬をかすめてゆくひんやりとした山の冷気に火照った気分を解放させてゆくのだった。


ふせた目もとをほんの少しだけ開いてみると、自分と同じ高まりのなかに心情を捧げた純一の閉じたまぶたが、すぐそこと云うより遠い遠い記憶から霧状になって現われているように思える。
あのとき、どんなふうに会話が弾んでゆき、気がつけば双方の名と年齢を告げ合い、しかし、それまでの時間としてもさして長くはないはずの、好意が互いに浸透している実感の渦中にあって、不意に訪れたその姓が持つ反響は、まるで余韻のほうが前にたなびいていると云う錯覚をあたえ、後から脳裏に深いよどみをもたらした。
濃霧にさえぎられながらも、予想を裏切らない形状をそこに認めるであろう、あの願望の正当性のように。
初恵のこころに目には映らない波紋がひろがっていたのだが、それは自覚しようとする意識がまだかろうじて、対岸の火事の如く物見ですまされればと云った、直感的な否定の作用が働いて、と云うのもこれ以上関わるより、ただ道ばたですれ違った人みたいにさり気なくその場を離れれば、たとえ耳に飛び込んだ異物であろうとも、別段これよりは実質的な責務を負うわけでもなく、悪印象だとすれば追々とわだかまることになるけれど、一切を否定する保身のための逃走だって最善の手段にもなる。
「しかし、それではわたしのほうが悪ものみたい、過去を捨て去ること、、、もっとも善い方法はそんなふうに日陰にくぐもることじゃなく、この日陰から飛び出してゆくことじゃないかしら」
意志はいつもなにかに突き上げられる。

初恵のよどみは確かに汚濁のなかにあり、それゆえ波紋の伝播もよく感じとることが出来なかったのだが、いったん意志のちからを宿したからには、そのさきの紋様は蜘蛛の巣のように、颯爽と夜気に白く張りめぐされ、執拗な邪気を眠らせながら、毒素はとりあえず中和されて、何より粘液をもってこれから編み込まれる賭けにも似た遊戯に甘い殺意を封じこませるのだった。
「あなたの閉じた目をわたしは、こうして薄目でぼんやりと見つめている、、、あなたの知らないことをわたしはよく知っている、、、それは、いつかあなたにさらされる宿命だとしたら、わたしの手のなかには、一個の鍵が握られている」

純一は自分のくちびるの渇きが初恵のなかから湧出するもので充たされるのを願った。
その小ぶりなこれまで味わったことのない濡れた果実を思わせるぬめりの感触はこうして重ねあわせれることによって溶けだし、いつしか純一自身の一部と変容していくのである。
彼はことの最中に、その筆舌にしがたいまでの味覚を何度も言葉に現そうとしては断念し、その代わりに本当に噛みついてしまいたくなる衝動を優雅に味わいつくそうと、反対に軽くさながらあめ玉をしゃぶるときの愛おしさで口中に含んでしまった。
純一は忘れてはいない、相手の口を封じてでもいる加虐的な興奮の陰に、麻希との初体験が夜霧の神話の如くにひそんでいるのを。
そして、その悔恨と失意がねじれを生じ、夢うつつの肉感でありながら、この掌に収まり残された鍵の冷たさが被虐性を養い続けていることも。