美の特攻隊

てのひら小説

夜明けのニーナ

空の色はまだ鉛を溶き流したように鈍く、星の瞬きが離ればなれの境遇を嘆いているのだと、大地の裂け目の奥底から誰かがそっと教えてくれたあの夜更け、ニーナはとても静かな馬車の音に揺られながら、城の門を通り抜けた。
うしろを振り向いてみる意気が消えたのは、城門の先へたたずむ女主人のともしびを忘れた暗き双眼にのみこまれ、過去がゆくえを失ったからであった。
それだけではない、麝香を想わせる芳香があたりに漂うなか、歓迎の証しであろう朱に染まった唇が、限りなく明るみを放っていたので、微笑が宿す真意を知らされたような気がし、未来が記憶を封印したと了解した。
「夏の夜とは言え、冷えたでしょう」
女主人は召使いを侍らすことなく、たったひとりでニーナの到着を待っていた。
「暖炉はまだ燻っているのです。さあお入りなさい」
柔らかな声は孤絶した山間の城壁に幽かにこだました。
そして闇に溶けたマントをさっと翻せば、洞穴に敷きつめられたかの苔した濃緑色の裏地をかいま見せ、始終寡黙であった御者の一礼を背に受けて、あたかも夜想曲の調べに誘われるよう霞がかった石畳を軽やかに踏みしめた。
御者に抱かれたニーナはためらうことさえ許されない、禁断の園に立ち入った歓びと恐懼が交差するなか、鬱蒼と茂る草いきれの眠りを妨げないよう、それは夜気を切り分けつつ歩みだした怯懦に結ばれ、やがて豊かな実りの夢想にたなびいて、息をひそめ様子をうかがっている獣たちの沈黙に歩調を合わす術となった。

「ここがあなたのお部屋です。長旅で疲れたみたいね。今夜はもうおやすみなさい、あとでスープを運ばせますから、ゆっくりと」
給仕も執事のすがたもニーナの青い瞳に影を落とすことはなかった。
この城に棲むものは女主人だけしかいない、確信より早く、夢見の残像が広大な敷地を徘徊し、えも言われぬ居心地をあたえた。
だが、希望と不安の入り交じる胸の動悸は、深更の底に伝わってくる古びた時計の音に共振し、紛れもない時刻を読みとる以前に、花園に群がる蟻の幻聴をもたらして、蠢動から導かれるよう暗黒にきらめく星の数奇なる運命へと想い馳せるのであった。