美の特攻隊

てのひら小説

夜の河 〜 8

洞穴の出口にようやく近づいてきたのか、ほの暗いなかをいつか想い出のうちに印象づけられた淡い光線が、まぶたの裏に幽かに甦ってきたのがわかり、ためいきに似た気休めをもらすも、しかし軽微な希望であることを決して忘れ去ろうとはしなかった。
意識の黎明は星屑のまたたきとともに、ゆらめく小舟の危うさであらたな水路へと押し流されて行くようで、もやがかった先行きに期待するわけでもなく、放心状態の無防備さのまわりにはこれと云った恐怖の感覚はない、そこのあるのは穏やかで、そしてとても静かに息をひそめている川面に映える月影だけであった。
からだが水中にかなりの間ひたっていたのが、今となっては幸いなのか初恵のこころも一緒に包み込まれていたかのようで、羊水に満たされて守護されている胎児の鼓動が小さく打ち続けられるのと同じく、いのちの息吹は夜の世界にまだ見ぬ彼岸を夢想させた。
煙霧たなびきながら夢物語は映しだされる、、、それが連鎖反応であるならば、何もかもが透きとおってしまうほど、その情景はあまりにも美しい。
残月が夜明けをくぐり抜けてもまだ、おぼろな姿を中空にとどめているように。

初恵はスクリーンに浮かびあがる夜の砂浜を見つめていた。
闇夜かと思われる幽暗の浜辺に打ち寄せる白波の思いは、わずかな意想を宿していたのだろうか、気がつけば一体の鎧武者が黒々と全身に潮をしたたり落としながら、隆として波際に立っている。
兜のしたにあてられた、さながら鬼神の面貌に戦の相はすでになく、いにしえからよせてはかえす無常の波間に消え去ったのか、そこにはうつろな笑みだけが妖しげに取り残されていた。
鎧武者はこの世のものではなかろう、何故ならば、ゆっくりとかぶりをふるように波頭を睥睨する様が、己の魂魄に引導をわたしているさなかをしのばせ、海水のしずくにしとどと濡れた漆黒の甲冑を照り返す細氷にみえたきらめきが、はじめて月のひかりであることを知り、その美しさにたましいが奪われていくのを陶然と見つめ続けていたからである。
それは月明かりが、夜空に隠れながら地上を照らしている心情をわかちあうことでもあった。闇夜の海から船出するために。
まるで無声の白黒映画の一場面であるかの、月影の鎧武者はいつまでもそうして浜辺に佇んでいた。初恵がその恍惚のまなざしを放すまで、、、

うっすらとまぶたが、ちょうど小箱のふたを開けようとする間をわざをゆっくりとしてみせるように、ほんの少しだけ世の中を見てきたふうに開かれたかと思われたのだが、確かにめざめではあったかも知れないけれど、ここがどこの家やら部屋やら判別することが出来ないことを承知で、再び目を閉じようとしたのは、あふれ出してくる涙のしずくと一緒になって胸のうちからこみ上げてくる悲しみがなせるわざによるものだった。

おばあちゃん、、、とちいさな声をもらした途端に、いままで夢のなかで亡き祖母の生前の姿絵が生き生きとしてえがき出されていたことを知り、それから幼い時分に飼っていたうさぎが死んでしまってから、もう随分と月日が流れてしまったことを思い出した。
布団のへりが両目からこぼれたしずくで湿っている感触を得たとき、夢見の途中のこの意識もまだ夢のなかから出ていないことを実感したのだったが、その実感もさらに閉じられたものとすれば。
飢渇を覚え、手をのばしたつもりで水を飲み干してみても、それが夢の欲望だったとしたら、覚醒しないまま喉だけがひりひりと渇いているのを意識するのは、半睡がもたらす体感の仕業なのか。
眠りの場から緊縛された身をふりほどく勢いで脳みそを揺り動かしてみると、いきなりぱっと視界がひろがった。

やっと目がさめたとそのひかりに包まれた部屋をよく見てみれば、ベッドと横になった自分はそのままで、部屋全体が確実に九十度に傾いている。初恵は首を曲げて位相を反転させようとしてみたのだが、カーテン越しの陽射しにまき上げられたかのようなほこりは、その微細な粒子らが奏でるとでも云うのか、聴き取るのが不自然なくらいの不協和音を放ちながら、歪んだ空間をいっそう強調させている。
遠足で遊園地に行った際、こんな回転屋敷に入ったことがあったはずだと記憶の貯蔵庫から呼びだしてみると、以外に驚きや不安の要素が拭われて、代わりにあの胸がさわぐ戯れに可能性を期待する遊びごころが招かれ、慎重に体を起こし手が触れるたんすに身をすり寄せようとしながら、まるで綱渡りでもするかの足取りで、この傾いた部屋から出ていこうとした。