美の特攻隊

てのひら小説

夜の河 〜 9

陽光がまぶたのうらに赤く染みこんだかの記憶は茫洋としたまま、しかし追想される、きれぎれなひとこまのなかに於いてひび割れのように引かれた、あるいは二枚貝がわずかに海水をあらためて含みいれる様相で、薄目をかすかに開くと、月あかりの有為転変を眼睛に知らしめたのだった。
「まだわたし、生きている」
水温に体熱をうばわれ、風船のようにからだから浮遊した意識のなかに点滅しはじめたのは、嬰児のちいさな鼓動にも似た、いのちの実質に違いなかったと初恵は感じた。

町中を流れついた河口と云うこともあり淡水と海水、それに生活排水が入り混じったものをかなり飲みこんでしまい、胃洗浄や感染症の検査を含め、消耗した体力から微熱が遠のくまでまる三日間入院したあと、平癒を待って自宅保養に落ちついたのだったが、みなぎる若さを包みこむ身にしてみれば、ほとんど回復した状態であって、ただ精神的な動揺が尾びれをひいており、それは水のなかに未だひたされ、ただよう気分を振りはらわれない、まとわりつく悪夢の残響から逃れられない過去形として初恵のこころに巣くっていた。

交通事故や感冒が、べつだん悪形をもって我が身に降りかかってくるとは信じていないように、河口への転落もふとした失態以上のなにものでもないだろう。
ところが家族やまわりは親身に九死に一生だったと、口をそろえ初恵の胸中を忖度しながらも、その実不幸な事件であったことを執拗にくり返し唱えているようで、それは憂慮の裡にひそむ、話柄にこと欠くことに失意をおぼえる、あの軽やかな逃げ足をもつ薄っぺらい悪意にも思えてくるのだった。
友人知人のなかには心配顔はそのままで、そのくせ陰では「ほんと、かっこわるいわよね、しかもよりにもよって祭りの日に」などと非難しながら失笑している言い様を知らされたり「先輩がさ、雑誌記者になって今度記事を書かせてもらえるらしいから、試しにどうかな」と云った嘲弄を含んだものまで、聞き流すわけにはいかない波紋が生じ、そんな嫌味な反応と向かい合わなければならなかった。
実際にも地元新聞の片隅に掲載されたことが引き金となり、初恵の心中は錯綜とした森のなかに迷いこんでしまったのである。

元来ものおじしない性格だったけれど、今回のことで本来ならば過失と云うべき事故が異色の出来事みたいに語られてゆき、自分ではその辺で転んだとき同様のばつの悪さこそ覚えるものの、大げさに騒ぎたてるほどのことではないと思っていた。
ところが子供じみたいじめに近い無邪気ながらも、尖った刃を向けられているようで、それは初恵が中学のころ、弱いものいじめと呼べるふるまいのあげく、今度は上級生からにらまれて取り囲まれた折の恐怖心があわせ鏡となって脳裏にわだかまり、後悔の念と侮蔑の感情が他者を介して往還している、なんとも居たたまれない心持ちになってしまったのだ。
終いには懺悔の海に飛びこんでしまいたくなって、そんな自分をよくよく顧みたときには、やはり転落したのも一種の天罰かなどと柄にもなく落ちこんでしまった。
最初は血相を変えて病室で初恵を見守っていた両親や姉の、今はいかにもほとぼりが冷めた安心のうちから発せられている他愛もない言葉と口調に、どこか自分を叱責している響きが感じられ息苦しくなってきた。

そして寝つけない夜のまくらもとに、耳をすますと幽かに川の流れが聞こえだし、天井に張りついたかの豆電球の赤みをおびた黄色いあかりが、あの川中より見上げた月のすがたを思い出させ、闇は部屋に忍びより黒い生き物と化して呼気をもらしはじめるのだった。
静かに沈み眠りおちてゆくころには、夢とうつつの境であいまいな知覚と想念が溶けだすと、一定のすがたかたちをとりつつも次の瞬間には時間も停止し、それはあたかも樹氷のごとく細やかで、つかみとろうとした途端にもろく消えさってしまう、はかない光景の明滅となって夜露でぬれはじめた。

気がついてみれば、そこは記憶の墓所なのだろうか、頭上を旋回するカラスの群れに誘われて天に舞い、更なる浮標へと導かれたとき、川のなかに落下したその後の失われた意識が、おぼろげながらもよみがえってきたのである。